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『wizardryで物語る』 Appendix Story
005 メンダークス

「隣で友人が悪夢にうなされていれば、誰だってその世界から救いたくなりますよ。お節介なのは分かってるんですけどね。僕はそうしたくなるんです」
 セスの顔はまだ新しい泥や血で汚れていた。しかしどうにか、迷宮からは脱したようだった。転送床で飛ばされていたのだから、あれからまた長い時間を要したのは分かりきった事だったが、私はその顛末をほとんど覚えていなかった。
「……ドレインが引き起こすのは、記憶の混濁だ。それは決して元には戻らない。覚めれば昨日を続けられる眠りとは違う」
「すみません。でも、過ぎた事実だってその多くが曖昧だと思うんです。記憶や経験なら、また新しく始められます。もしも混乱した時があれば、僕達を頼って下さい」
 私は手で顔を拭い、その間に彼から目を逸らした。一体自分が何を言っているのか、考えないではいられなかったのだ。常に厳然たる死を求めてきたのだから、この持ち物も、肉体も、過去も、惜しいものなど何一つないはずだった。しかし今いくら周囲を見回したところで、それをはっきりとさせる術は容易には見付からなかった。
「ま、人間らしい考え方だわな」
 しばらく経ってから、ジンが口を開いた。もしかするとそれは皮肉だったのかもしれないが、マイペースな彼がわざわざ沈黙を破ったのは、皆に気を配ったかのようにも思えた。そのおかげで、場の空気が心持ち安らいだ。
 見たところ、昼を過ぎた頃らしい。一日ぶりの光が、洞窟の入り口に弱々しく差し込んでいる。しかしそう遠くない空には嫌な雲があって、私は岩壁に背を預けながら、大した理由もなくこの後の天気を案じていた。
 その間に幾人かの冒険者が通り過ぎていったが、彼らは古くからの流儀に従い、こんな所で座り込む面々には決して干渉しようとはしなかった。しかし一人だけ、ピンと伸びた背に見事な髪を揺らした女侍だけは、邪険そうにする態度を隠さなかった。彼女は、その高慢にすら思える角度で私達を一瞥してから、迷宮へと消えていった。それで、誰からともなく腰を上げ始めた。
「とにかく、あまり気にし過ぎない事ね。ほら言うじゃない。死ななきゃ安いもんだ!って」
 私の顔色をじっと見ていたカトリーナは、何を勘違いしたのか、寄ってきて力強く肩に手を置き、そう言った。突き出した右手はぎゅっと親指を立てていて、自信満々の笑みが片側から陽の光に照らされていた。しかし彼女は、私の不思議そうな視線に気付くと、すぐ口を尖らせた。
「何よ。何か言いなさいよ」
「そうだな。君は、私を嫌っていると思っていたんだが」
「そ、そりゃ嫌いよ! 何なの、心配してやったら! あんたの事なんて知らないわよ!」
 そうして忙しく怒りながら町へ歩き始めた彼女を見て、グレースやカイ、ジンも続いていった。セスは一人苦笑していたが、皆が行った後で、控えめにその手を私に差し出してきた。
「荷物、持ちますよ。疲れたでしょう?」
「いや、遠慮しておこう。どうせ大したものは持っていないんだ」
「そうですか。だけど、少しはアテにして下さいね。あなたの刀に随分支えられているんです」

 雨が降ると、気温は急に低くなった。雨粒は細かかったが、道行く人々は皆急いだ様子で通りを行き交っている。傘も差さずに歩き続けていた私はふと立ち止まり、高台の風車を見上げる事で自分がどこにいるのかを知ろうとした。ここは低地だから、視界には広大な灰色が延々と続いていた。
 町には坂道が少なくなく、中でも一番長い坂の上にその古い風車があった。もちろん、この強大な城郭都市の体内にあっては、そんなものは既に飾り物に過ぎなかった。しかしあたかも生き物のように成長を続ける存在の中で、人々はそれを郷愁の風景として愛していた。エルフには理解しがたい感覚だった。が、私もよく建ち並ぶ家々の隙間からそれを見上げていた。今いる場所を確かめるために。
 あの時、セスは「疲れたろう」と言ったようだが、それはおかしな話だった。確かに、最近は迷宮内の仕掛けに振り回されたり、大量の麻痺者を出したりして、パーティは綱渡り的な帰還を繰り返していた。しかしどんな危機に直面しようと、私が疲労を覚える事などなかった。それよりも、この長い日常が生み続ける徒労感の方が、余程実際的だったのだ。
 それがいくらかの歳月をかけて、身の回りのものを磨り減らしていったのである。そのため、私はもう本当に大したものを持っていなかった。彼女と過ごした森の時間ですら、朧気な記憶と決定的な無理解が手元に残るだけだった。
 妻は、よく笑う女性だった。花が咲くとそれだけで嬉しそうにニコニコした。最初は人間だからそうなのかもしれないと考えていたが、彼女は若くして迎えた死の際ですら私に向かって微笑んでいた。私は刀を多くの血で濡らしながらも、どんな顔をしていいのかすら分からずに、それを見ているしかなかった。どれだけの時が経っても、分からないままだった。だから憎しみを孕んで黒エルフに墜ちる事も出来ず、罪を濯いで森に帰る事も出来ず、挙げ句死からも嫌われていた。
 この瞬間も、私は彼女の表情を思い返して、その詮無い疑問を弄んでいた。だが今更そんな事をして、どこに向かおうとしているのか? 雨水は、全ての輪郭をぼんやりとさせていた。どれだけ風車を見上げても、手がかりなど得られるはずもないのだ。
 が、声は聞こえた。
「あなた、こんな所で何をしてるの?」
 怪訝そうな、少し苛立った声だった。それは、向こうの軒先から私に向けられていた。
「うちは冒険者お断りって言ったでしょ。いい加減しつこいわよ」
 色素の薄い髪を後ろで束ねた、色白で長身の女だった。目尻と眉間には貧しさと闘って出来た小さな皺が見られたが、そこにくたびれたような影は決してなく、むしろその細身でどんな相手にも臆せず向かっていくような活力が感じられた。気の強そうな眉の下には青い瞳があって、それは角度によって色味が微妙に変化する、美しいものだった。どうやら、私は彼女を知っているらしかった。
「ちょっと、どうしたのよ?」
「すまない」
「すまないって……。ねえ、その腕は怪我をしているの?」
「さあ、いつ頃出来た傷だろう」
「痛む?」
「いいや、どうでもいい」
「どうでもいい事ないでしょう。手当だって……。だから嫌いなのよ、冒険者は。ちょっとこっちに来なさい」

 ここは中央の繁華街からは少し外れた、細い家々や安宿ばかりが寄り添う地区だった。道は狭く、どの時間も人通りがまばらだったが、城が遠くないせいか変に落ち着いていて小綺麗だったため、どこか寂しかった。
「今片付けるわ」
 店の中にはハーブの匂いが充満していた。彼女はそれをさっさと片付けながら、少しでも節約になるよう自分で育てたものなのだと、独り言のように言った。それからランプに火を入れた。外の光は、奥まった室内ではあまりに無力だった。細かい仕込みをしていたのに明かりもつけていなかったのは、面倒だったからか、それとも油が惜しかったからか、それは分からない。
 酒場というよりは食堂といった風で、カウンターの隅に花が一輪、壁には絵画が一枚だけ飾られている。私は数少ないテーブル席に座らさせられていて、開けたままのドアから無遠慮に入ってくる雨音や靴音に耳を傾けていた。
「その絵が気になる?」
「つまらない神話画だ」
「エルフからすれば、ここにあるものは何でもつまらないんじゃない?」
「そんな事はない」
 彼女は濡れた布や消毒用の草を持ってきて、しばらく手を動かしていた。私は珍しく自分から言葉を繋ごうとしたが、大して面白い事は言えなかった。
「この町は若いから、歴史を欲しているんだ。だからこんなものでもありがたがる」
「私だって嫌いよ、それ。でもここの持ち主の収集品だからどかせないの」
 彼女はすました顔で、つっけんどんに答えた。
 聞けば店を持っているのはローベルトという男だった。その名はトランブルの冒険者なら誰でも耳にした事があった。あのドジャー商店の経営者で、町中の売り買いに首を突っ込んでいる古株だ。政治絡みの話はなかったものの、金持ちの噂によくあるように、この町を実際に動かしているのは彼だと面白がって言う者が絶えなかった。何しろここは隅から隅まで商売で回っている都市だったから、僻む貧乏人達は、あいつは茶を飲みながら人殺しを出来る人間だ、とそんなように囁き合っていた。
「でも楽な相手よ。お金さえ払えば、やり方に口を挟まないもの」
 そうはいうものの、その金が問題に思えた。ここはどう見ても儲かっていなかった。
「冒険者を相手にしないのは何故だ? この場所でそんな事を言っていては、商売にならないだろう」
「さっき嫌いだって言ったはずよ。冒険者は嫌いなの。あなたこそ、何故うちに来たがるの?」
「今はまだ覚えていない」
「え? 何て?」
「ドレインを受けたんだ。分かるか?」
「大変じゃない!」
「酷い症状は、しばらくすれば収まる」
「だったら、尚更宿で寝てなさいよ! 何でこんな所に」
「分からない。だが来ていた」
「……どうしてこう馬鹿なの。自分から危険に突っ込んでいって、口を開ければ偉そうな事ばかり。本当は成し遂げたい事なんてないくせに。行けば地の底へ潜るだけじゃない……」
 彼女は語気の強さとは裏腹に、そっと包帯を絞めた。漂っていた闇は心細い照明のせいでより一層深まって、互いの横顔を決して明かさなかった。
「ねえ、迷宮って何なの?」
「迷宮が何であるのかは、本質的には誰にも分からない」
「やっぱりエルフでも知らないんじゃない。……宝箱だって、おかしいわ。誰が何のために置いているっていうの? 罠まで仕掛けて。あんな物のために命まで振り回されてる。そんなの、私はごめんよ」
 冒険者達も、よく語り合った。あれは先人が後の者のために、不要な品を残しているのだ。いや、地下のどこかに罠屋があって、同業者を陥れるために作られているのだ。単に迷宮生活者達が地上の記憶に引かれて、ヒトの真似事をしているのだ、と。
 つまりそんな話は、ただの暇潰しに等しかった。恐らく彼らにとっては、事の本質だの意味だのはどうでもよかったのである。彼女は、迷惑なのよ、と口を動かした。
「……以前、こんな話も聞いた事がある。黒サンタのようなものがどこかにいて、それが魔物達に宝を配っていると」
「さんた?」
「ああ」
「あの、お髭のお爺さん?」
「そうだ。良い子にプレゼントをくれる、老人だ」
 彼女は突然、目を丸くしてこちらを覗き込んだ。ランプの炎が揺れると、その瞳は宝石のようにキラキラと輝いて見えた。それは溜まっていた涙のせいだったのかもしれないが、理由は日々と似て、すぐに曖昧なまま去って行ってしまった。ろくに考える間もなかった。次の瞬間には、彼女が思わず吹き出して笑顔を見せていたからである。
「何故笑う?」
「ふふっ。だって、あなたがそんな顔して冗談を言うから。あはは。おかしいわ、エルフは真実しか言わないって聞いていたのに。それとも冗談は嘘に入らないの?」
「冗談ではない。それに君が言うのは、ハイエルフ時代の幻想だ」
「そうよね。完全種なんて聞こえはいいけど、冗談も言えないんだとしたら、悲しいものね」
「完全であるなど、閉じた呪いのようなものだ」
 私はいつものように事実を口にしただけだったし、彼女もその裏に真意を求めるような湿っぽい女ではなさそうだった。しかし時間が沈黙に晒されると、それだけで様々な感情が反射して映し出されるものだ。そんなものは自己中心的な、勝手な解釈に過ぎなかったが、私達は確かにその彩りの中にいた。すると何故か、あの騒がしくも、何とか世の中を生きていこうとしている連中の事が思い出された。理由は分からない。分かりそうもなかった。

 冷えた身体は、一杯のハーブティが温めてくれた。どの席にも葉が装飾されたバスケットが置いてあって、そこに薄焼きのパンが入っていた。それはトランブルが出来る前からこの地方で食されていたものだった。
「二人亭主がいたわ。そして二人とも死んだ」
「迷宮でか?」
 彼女は頬杖の上で微かに頷いた。それからここがまだ辺境だった頃の思い出をいくつかと、そこで一緒に育った元気な少年が、町と共にどう変わっていったかを教えてくれた。数ある人生においてはよくある話だという風な口ぶりだった。
 客はいつまでも現れず、この店のあらゆる運動は停止していた。その上私達は時を計る道具を持ち合わせていなかったから、時間は一向に進んでいかなかった。
「ここは一人でやっているのか?」
 いつしか飽きてしまったかのように黙っていた彼女だったが、その一瞬は、キッと強い眼を見せた。人間だから、同情というものを嫌ったのだ。
「一人よ。だから私が動かないと、何も始まらない。でもそれって、悪くないわ。贅沢は出来ないけれどね」
「しかし……。大変だろう?」
 わざわざ眉を上げながら言った私の言葉は、また彼女を笑わせた。不意に緊張が解けたような、鼻から抜ける笑みだった。
「おかしな人。まるでお父さんみたいな言い方ね。エルフってみんなそうなの?」
 そうして束の間、通りのベンチでその脚を休めるように、穏やかにクスクスと微笑んでいた。だが少ししたら、彼女はまた当たり前の事のようにそこからヨイショと立ち上がり、こちらを真っ直ぐに見つめて言った。
「平気。ただ暇がないだけだもの」
 その顔が、私に強い衝撃を与えたのだった。それはいつか私が見たものと、瓜二つだったのである。
「どうしたの?」
「少し、思い出していた」
「何か思い出せたの?」
「そうだ。おかげで助かった」
 何が?と口が動きかけたようだったが、一人で満足したような態度を取る私を見て呆れたらしく、彼女はそっぽを向いてしまった。それから空のカップに横目を向けた。
「元気になったのなら、もう帰って。お客さんが迷惑するわ。うちは冒険者お断りだって言ったでしょう」
 月明かりがないと、この辺の夜は暗かった。しかし私の振る舞いから帰り道に迷うような心配を感じ取れなかったせいか、彼女は立ち上がると胸をわざとらしく反らして、怒ったような態度を示した。私にはそんな器用な真似は出来なかった。だがせめて会話の都合は付けようと努力をしながら、最後に一つだけ尋ねた。
「そうだ。名前を聞いていなかった。教えてもらえるか?」
「図々しいわね。まあ、いいわ。私はイルマ・ヴェサ」
「そうか」
「そうかって……、本当に自分勝手に納得する人ね。そちらの方のお名前は?」
「私は、アウリスだ」
 イルマはふうんと興味なさそうに鼻を鳴らしていたが、席を立つ私を見た時に気になった事があったらしく、ランプを持ち上げてそれを顔の側で左右に揺らして見せた。
「不思議な眼をしているのね、あなた」
「エルフは皆こうだ」
「そうなの。……それじゃあ、ほら。この傘を使いなさい」
 すまない、と私は言った。
 そして宿へと戻っていった。道すがらこの町に生きる人々の数について考えてみたが、それは膨大でなかなか全てを把握出来るものではなかった。今彼らは寝ていたり起きていたり、酒を飲んだり孤独を嘆いたりしていた。私は傘の雨を振り落とすと自分の部屋へ入り、靴も脱がずに横になった。眠りは、すぐに訪れた。
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