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『wizardryで物語る』 Appendix Story
008 カトリーナ・フリエル

「ギャンブルがしたいんじゃないの。あたしはね、お金を増やしに行くのよ」
 カウンターの向こうで呆れる彼女に手を振って、あたしはギルドの外へ出ていった。
 大きな嵐が過ぎた後、秋は急に暖かくなった。地下深くにいなければ、こうやって季節や空の移ろいを感じる事も出来るのだ。
 一つの迷宮を探索し終えると、国から報奨金が支払われる事になっていて、パーティはその手続の完了を待ちながら、暫くは人並みの生活を送っているところだった。トランブルは年がら年中騒がしいのだと思っていたけれど、こうして時間を持て余してみると、途端に人々の忙しない日常すら穏やかに見えてきて、不思議な気分だった。
 とはいえ、この稼業にとって街で過ごす時間というのは全くの無収入なのだから、本来歓迎すべきものではない。ギルドもならず者達を市民の間で遊ばせるのを嫌い、この冒険の幕間とでも呼ぶべき期間が生じる事には頭を抱えているらしかったが、国との繋がりが非常に強いトランブルの冒険者ギルドにおいてすら、最近こうしたやりとりの鈍さが目立ってきていた。それは勿論、この新興国で活動する冒険者が増える一方である事が主な原因に違いなかったが、それを積極的に受け入れるよう強硬的な路線を推し進めていた軍警察長ハルシュタインの政治的立場に変化が生じたのではないか、とも噂されていた。
 さりとて、どんなに賢く考えたところで、あたし達に出来る事は限られていた。それは南地区の歓楽街で散財を続けるか、先頃集まってきた隊商による国際市で物を漁るか、その金もなければ訓練所に通う新入りに声を掛けてたかるか、それぐらいだった。
 とどのつまり、冒険者の居場所というのはその程度の広さしかないのだ。世界が如何に広大でも、街はそれを仕切る事で生まれる。自由があるのはその中の更に一部に過ぎない。不思議な話だが、あたしは生まれてからずっと地下に暮らしていた頃と今とでは、どちらがより自由なのかよく分からなかった。少なくとも今は、こうしてドレスなんてものを着て大通りの真ん中を歩く事が出来たけれど。
 ドレスはグレースに借りた。鮮やかな紫色をしたワンショルダーで、肩には雪のような花と二羽のカワセミが艶のある白で形作られていた。動きやすい深めのスリットだけはこちらの希望だったけれど、こんなに煌びやかなものを身に付ける気はなかった。しかし、グレースは話を聞くと嬉しそうに何着も持ち出して盛り上がり、これを選んだのだった。
「ご婦人! 蜂蜜、蜂蜜! ガラクで採れた上物!」
「カーセル国の古いユニ達が三千年前と同じ手法で織った生地が、これなのです」
「トランブルの幸福な住人が本当に欲しいのは、遙か西の品じゃあないですか! 見ればもう分かるでしょう。デュ・プレの『異郷の人』でも使われる髪飾りです。イデールランド国のボールドウィンが手がけた三点ですよ!」
 徐々に色とりどりの言語が通りの両端を飾り始め、あたしの変な気恥ずかしさは溢れる活気に紛れていった。そんなカラフルな雑踏の果てに、視界が開けた。石段の下には出店や天幕が建ち並び、喚声や笑い声や、怒声にも似た口上が行き交って、薄い秋空はそうしたヒトの生命力に圧倒されているようにも見えた。
 この辺境国に大きな国際市を呼び込んだのは、ハルシュタインの手柄だった。周辺を強力な魔物が闊歩するトランブルの地勢は、他国の武力からその身を守る一方で、経済の流れからは疎外していた。「戦争も商売も同じです。利益が労力に見合えば、自然と足先が向かう」。かくして、この国は無数の冒険者を巻き込みながら軍事力を拡大し続け、街は延々と成長する事でその変化にしがみついていった。規模が大きくなるにつれ出入りする商人も増えていって、彼らの護衛で日銭を稼ぎながら、金回りの良い国軍に取り立てられるのを待つ者達も後を絶たなかった。
 広場の左手に面した西地区庁舎は威圧的な程に大きく、あたしは歩きながら、それが如何にもトランブルだなと考えていた。右手には今下りてきたような緩やかな石段が上を向いていて、瀟洒な隊商宿がこの人混みを悠然と見下ろしている。降り注ぐ陽の光に、あたしは目を細めた。

 中庭には手入れが行き届いた多種多様な植物が植えられ、中央にある噴水が見た目よりも遙かに繊細な音を出していた。耳を澄ませば、ピアノの音色も聞こえてくる。それは軽やかに跳ね回るような曲調で、楽しげだった。あたしは目の前に鍵盤を思い浮かべて、一体どうやったらあんな風に弾けるのだろうと想像してみた。けれど自分の指がそこまで上手く動くようにはとても思えなかったし、彼らはそもそも鍵盤など見ずに音を奏でているのだから、こんな想像をしている者には端から理解出来るはずもなかった。
 一階の広々とした通路には常にヒトが行き来して、その誰もが口端にうっすらと余裕の笑みを滲ませている。ある扉の前では、それと全く同じ表情をした僧侶が、壮年の男女に神の偉大さを説いているのを見た。物とヒトの動きが激しい場所には、必ずこういうのが現れる。連中は各地で起こった事々に耳を傾け、例えば国の繁栄や、この宿を利用するような金持ち達の成功なんかを、神という言葉で解説するのだ。
 嫌になるくらい、見慣れた光景だった。ただ、それを聞いて深々と頷いているのが皆、色彩豊かな仮面で目元を覆っているのは滑稽だった。彼らだけではない。この階にいる者はその殆どが仮面を付けていて、一つのホールを中心に動いている。
 あたしも、そうだ。
 ボーイが軽く頭を下げながら、カジノへの扉を開けた。絨毯の鮮やかな色だけでなく、室内全体の印象が明るくて華やかなのは、人々が顔を隠す事で開放的になれるからという訳らしかった。そんな非日常的な雰囲気が、どの席からも感じられた。
 あたしは突っ立っている給仕からワインを受け取ると、所在なげに腕を組んでテーブルを回り、幾つかゲームを見ていった。思った通り、つまらない勝負ばかりだった。この部屋の外で儲けすぎた者達が、派手な手で運試しをしては、周囲がそれに一喜一憂しているだけである。それは毎回のように大事が起こっているように見えて、最初から何も起こっていないのと同じなのだ。
 しかし憎らしい事に、そういった連中は大損をする事もない。心許ない有り金で必死になっているような貧乏人と違って、大抵を恐れないからだ。命までは取られやしないと、そんな風に考えられる生来のゆとりが彼らにはある。それに、上等な客相手には賭場も相応の態度を取るもので、税金みたいにお互いで金を回しながら、好きなだけ遊べるようになっていた。搾り取られているのは、頭を垂れて帰って行っても陽が昇ればまたやって来るような、学のない職人やありきたりな女達の生活ばかりだ。
「今日は運が向いている気がするの」
 まるで彼らのように、あたしは言った。目的の席が空いたのだ。
「出目はどう?」
 テーブルマスターは卓に着いたあたしの方にちらと視線を動かしてから、しかし何も言わずにカードを切り始めた。他の参加者も新参に興味を示す者はなく、時間を滑らかに経過させる為の音楽と共に、目の前で運勢が揺れるリズムに没頭していた。当たるか当たらないか、ただその行方を見つめているだけで、酒に酔ったみたいな表情だった。
 このギャンブルは、ダイスがその運命の全てを決める。配られるカードには、戦士や魔法使い、武器や魔法が描かれており、それらを加えたり消耗したりしながら手札を整えていって、一ゲーム中でどれだけの得点を獲得出来るか競うのだった。途中、プレイヤー同士の小競り合いで多少のチップが行き来するものの、勝負はあくまで最終的な持ち分によって決せられ、その大部分を占めるのは財宝と呼ばれる目標への到達順位にあった。
 手役の運用から行動のリスク管理まで、一見して技術介入の余地が大きく見えるゲームである。けれど卓の上で行われる一切はその時の出目で裁定され、例えばそれは移動フィールドにおける一寸先ですら例外ではない。当然、テーブルマスターによるゲーム展開への介入は露程も許されていない。
 こうして戦略よりも運の要素がはっきり強いのは、このゲームを作り出した者が明確に意図したところに違いなかった。何百年も前の話らしいが、旅の者を歓待してその土産話を聞く事を好んだ西方の大領主が、財宝を追う者達の物語に魅力を感じて、テーブル上に再現しようとしたのが始まりだったという。その男は賭け事をひどく愛していて、全ての理屈を吹き飛ばす純粋な運勢とそれによって散る命に、倒錯した共感を覚えていたのだ。
「ただし、賽はご自身に振って頂きます」
 カードを切り終えたテーブルマスターが、何千何万回と口にしてきたであろう前口上を淡々と喋った。賽は本人が振る。それだけが、この強力な運命の中でプレイヤーに許された唯一の行動とも言い換えられた。様々なルール改定の中でも残り続けたこの慣習は、制作者の強い意向だったと伝えられている。それはきっと、一種のフェティシズムだ。
「行けえ! そこだ殺せ!」
 隣の卓では、ギラギラした格好の女が泥酔して騒いでいた。首元まで丁寧に化粧をしてあっても、手の甲を見ればかなり年を取っているのが分かる。そんなどうでもいい事に興味を奪われるくらい目の前の勝負は退屈で、彼女が疲れ切って傍らの男達に運ばれていくまでに、三つか四つのゲームが過ぎていた。地味でありふれた展開に次々と面子が入れ替わった為、あたしが勝ち続けても、誰一人として注目しなかった。

 いつからか、褐色肌のボーイが歩いていた。それは恐らくファラハ国かどこか、とにかく南方の出身というのは間違いなさそうで、さっぱりした正装姿には似付かわしくない油断のなさが見て取れた。ただし、その身のこなしは徹底したもので、客が無法を働いたり嘘を吐いたりするまでは、決して丁寧な言葉遣いを崩さないような、そんな手強さも感じられた。
 ボーイは客の女を一人案内しており、あたしは勝ちの配当を受け取りながら、彼女の事を眼で追っていた。気が付いた周囲の者も、皆そうした。その仮面の脇、金髪の間から覗かせる尖った耳を見れば、彼女がエルフであるのは明らかだったのだ。博奕をするエルフというのは、聞いた事がない。
 程なくして、彼女はあたしのいる卓へと通された。丁度賽を振るところで、ボーイはこちらを見ながら、次のゲームから入るように案内していた。その女は常に猫背で、白のドレスかローブかも分からない古臭い服で身を包み、自分が注目されている事には全く気が付いていない様子だった。それで何となく、あたしは厭な感じを覚えた。人の目が集まる者と卓を囲むと大抵ろくな事がないし、それが人目を気にしない者なら尚更だからだ。
 昔から、嫌な予感はよく当たる。が、今回それは奇妙な形で現実となった。そのエルフ女というのが、度を超えた下手くそだったのだ。最初は、何か目的があって場をかき回そうとしているのかとも思えたが、節々の理屈ばった一手を見るに勝とうとしているのは確かなようだった。だがやっている事の殆どは滅茶苦茶で、一度など司教一人という手札で平然とフィールドを歩ききって、周りを驚かせると同時に呆れさせた。ある時は、頭が良いつもりの定石知らずという、最も単純なカモだった。だが別の時には、本当はエルフらしい智恵で勝ち方を把握していて、わざとそこから離れようとしているように見えた。
 とにかく、今のあたしには厄介な存在だった。とても遊びに来た素人とは思えない額を賭けるので、それが毎回目立って仕方なかったのだ。その上、負けても負けても態度を変えずに大勝負を挑むものだから、面白がって立ち止まる者が増えていき、地味な手で勝ち続けるあたしと奇抜な手で負け続ける彼女という二人の女は、ギャラリーへの受けが良すぎた。
 何回やっても結果は同じで、恐らくは何十回やっても変わらなかった。違う手札で、異なる道筋を通っても、まるで吸い込まれるように同じ結果が出る。あたしがトップで、彼女はドベだ。その度にテーブルマスターと、入れ替わっていく他の参加者達が、いくらかのチップを場へ手放していく。その繰り返しだった。観衆のざわめきが時間の歩みを落ち着かなくして、時は行ったり来たりするように忙しなく、しかし一向にどこへも辿り着かなくなっていた。
「飲み物、もらおうかしら」
 あるゲームが終わった際、あたしは部屋の入り口を見遣りながら呟くように言った。すると合図を受けた給仕の女が、目の前の長テーブルでワインの用意を始めた。そこには国外から集められたであろう食材を使った料理が所狭しと並べられていて、どれも載せてある食器に至るまで意匠を凝らした物ばかりだった。美しい磁器の肌、散りばめられた宝石の様々、楚々とした手付きで酒を注ぐ女、彼女の顔に仮面のように張り付いた微笑。
「どうぞ」
 あたしはつまらない苛立ちを隠す為に、すぐにグラスを口元へ運んだ。きつい香りの赤だった。それから一息吐いてゆっくりと周囲を見渡し、ギャラリーの中に例のボーイの姿を見つけ出した。彼はあれからずっと、ここに張り付いていたのだ。ただ直立しているだけだったが、ものを考えられる顔立ちのお陰で、まるで役者のような佇まいに映った。
「……隊商は、いつ頃までいるのかしら?」
 その言葉に、テーブルマスターは初めてあたしの眼を正面から見つめた。
「天気次第ですよ」
「なら、長くないでしょうね」
「分かるんですか?」
「よく当たるの。きっと嫌な雲が出る」
 あたしは飲みかけのグラスを置くと、手元の賽と少額のチップをテーブルマスターの方へ押し遣り、立ち上がった。
「終わるわ」
「……こんなに勝っていらっしゃるのに?」
「ええ、こんなに勝ったの初めてよ。でも、自分のツキの限界は知っているつもり。ギャンブルは引き際を選ぶものでしょ?」
 背後でボーイが動こうとする気配を感じたが、振り向きはしなかった。
「迂闊ですね。カモが留まっているのに、あなたがどこへ行くというんです?」
「テーブルマスターが客を焚き付けるの? それとも、本当に言いたい事が別にあるのかしら?」
「一度出た目に綾は付けません」
「じゃあ、回りくどいやり方も止めて欲しいわね。趣味の悪い金持ち達の見世物にはなりたくないの。妙なところがあったのか、なかったのか」
「……いいでしょう。落ち着けるお部屋をご案内します。話はそこで聞きましょう」
「分かったわ」
 互いに笑いたくもないのに笑みを浮かべた後、あたし達は周囲に出来た人だかりを抜けて部屋を出て行った。後に残されたテーブルには目配せを受けた例のボーイが入り、仮面の見物人達はもう別の話題を探し始めていた。

 宿全体に派手な音が響き渡った。
 巻き上がった煙の中から飛び出すと、あたしは鋭い風をもう二三作りだし、中庭や屋根に撃ち込んでいった。騒ぎを聞きつけた仮面の群れがこぞって出てきたら、後はそれに紛れてしまえばいい。
 こんな状況でも、入り口は固められているだろう。いや、こんな状況だからこそ入り口に注意がいくのだ。そちらには背を向けて建物の中を進み、まるで外から遠ざかるように奥まった地下への階段を降りていった。するとそこには、薄暗くひっそりとした空間が広がっていた。静かな場所だった。混乱した騒ぎが急に離れた所の出来事みたいに聞こえ、耳を澄ましながら吐いた自分の息が、壁に映されるシルエットのように実際より大きく反響した。
 広さはそれなりにあるはずだった。だが物置のように雑然と使われているらしく、そこここに影が落ちて全容が分からない。とはいえ、逃げ込んだ場所で明かりを焚く訳にもいかないので、手探りで慎重に目的の扉を探していると、見つけ出すまでにかなりの時間が掛かってしまった。
「待って」
 突然女の声が聞こえてきたのは、まだ明かりが届いている階段の方からだ。あたしは鍵を差し込もうとする手を止め、その大きな両開きの扉に張り付いて息を潜めた。
「ねえ。いる、でしょ。……いるかな?」
 おかしな気配だった。その消え入りそうな声が追っ手には相応しくなかったし、こちらを窺う仕草もキョロキョロと見回すばかりで、かといって立ち去りもしないという、捨てられた子犬のようなものだったのだ。それでもそのまま居られれば面倒だし、得体が知れない分こちらの出方を簡単には決められなかった。
 段々と上が騒がしくなってきた。それに、無理に動けばどうせ気が付かれる。あたしは自分が感じているもどかしさにそんな言い訳を与えると、思い切って口を開く事にした。
「何か用?」
「あ……。やっぱり、いた」
「あんた、もしかしてさっきのエルフ?」
 彼女は頷いたらしく、ぼんやりした姿が少しだけ揺れた。だとするなら、次の言葉には強い緊張感を持たせなければならなかった。
「何をしに来たの?」
「逃げてきた」
「……はあ?」
「怒られた。あなたの仲間だろって、言われた」
「嘘言わないで。テーブルに入ったのは、カジノの差し金だったんでしょう。今もそうなんじゃないの?」
 かび臭い空気がねっとりと動いているのが分かった。無言がそれを更に鈍化させ、頬の辺りに垂れた汗がいつまでも粘り着いていた。
 エルフ女は反応を示さなかったが、しかしやはりそこに立ったままでいる。あたしはどうしてか、それを不穏だとか時間稼ぎかも知れないとは考えずに、ただじれったいなと苛立って暗闇の外へ顔を出してしまった。
「あんたがいなきゃ、話はもっと簡単だったんだから」
 彼女は首を傾げて、不思議そうな顔をしていた。小柄のエルフがぼけっとした表情で突っ立っているのを見ると、それは世間の些末事を知らない森の精霊が見せる本来の姿のような気もして、確かに駆け引きを仕掛けようという風には見えなかった。
「……あんた、困ってるの?」
「うん……」
「あーもう! 付いてきなさい!」

「イカサマ?」
「まあね」
「イカサマしたら、いけないんだよ。悪銭身に付かず」
「いや、あんたには言われたくないわ。あんな賭け方してた奴に」
「……ズルして勝っても、つまらないと思う」
「うるさいわよ、ど下手のくせに。まさかあれで真剣に勝負していたとはね」
 扉の先に続いていた道は真っ暗で、下には瓦礫が積み重なっていた。だからそこを進んでいくのに忙しく、彼女が押し黙ったのがむくれたからなのかどうかを確認する暇はなかった。大体、最初に思った通りおかしな奴だった。話し始める時はいつも喉に何か引っ掛かったように言い淀むし、言葉の終わり方は丁寧だったりそうでなかったりと曖昧なのである。とはいえ黙っていられるのも気味が悪いので、今度はあたしの方から口を開く事にした。
「あんたがいなかったら、あっさり勝って、あっさり終わってたのよ」
「分かんない……。外の客には、身体検査とか魔法検査とか、あったのに。手品?」
「単純な手よ。でも、こういうのは単純な程良いのよね。あそこの卓のテーブルマスター、あいつが特別なダイスを渡してくれる事になってたって訳」
「お友達だったの?」
「まさか。今日初めて会った。契約みたいなものでね、だから何かあったらケツはこっちが持たなきゃいけなかった。合図してあの場を抜けたのはよかったけど、面倒そうなのに眼を付けられてたから、あたしが暴れる事になったの」
「何で?」
「何でって、そういう決まりだったから。出来るだけ疑われるような気懸かりを残さない為でしょ」
 ふうん、と唸るように喉を鳴らした後、彼女は少し考えてこう言った。
「……私の事まで助けてくれたのは、何で?」
 お友達だから? 決まりがあるから?
 途端に嫌気が差した。こういうのをいちいち聞いてくるような奴は、大嫌いだった。
「あんたみたいなのろまを助けたくて、こんな事してるんじゃない。あたしはただ、金持ち達が偉そうに遊んでるのが気に入らないのよ」
 上から微かな光が落ち始めるのと同時に、水音と悪臭が漂い、闇の正体が明らかになっていった。まるで亡霊のように青白く浮かび上がってきたのは、泥と汚水に押し潰され損なった道路、石壁、そして階段や扉だった。
「これ、街……?」
「古い街。といっても、トランブルが出来た当初にはまだお天道様の下にあって、住民が生活していたっていうんだから、こうなったのもそれ程昔じゃないらしいわ。こんな姿でもね」
「何か、あったの?」
「ただ捨てられたのよ。新しく綺麗なものを作る為に。立派な連中を呼ぶには立派な街でなくちゃいけない。それこそお金がかけられてて、品があって、古臭い野暮ったさや、図々しい貧乏人がいないような……」
 ここは、あたしが生まれた所にそっくりだった。生活が吐き出す汚らしさが最後に行き着くどん底だ。いつも埃が舞っていて、近くのものも遠くのもののように色が褪せてしまっている。
「さっきの扉、あの建物が改築される前は正面玄関だったらしい。もう、それを覚えてるヒトなんていないでしょうね。ここも同じ。下水が走ってるのがこんな所だなんて、今は誰も知らない。何でもこんな風にやられちゃうんだわ。上でふんぞり返ってる奴らからしたら、簡単なのよ。下から掠め取る方法なんて幾らでもある。けど、あいつらを出し抜いて一泡吹かせようとしたら、やり方は一つしかない。……まあ、それも結局はこうして失敗しちゃったけどね」
 明かりが垂れて弱々しく照らされた部分は、この暗い街並みに出来た染みのようだった。
 気が付くとエルフが前に回って、顔を覗き込んできていた。一体、あたしがどんな表情をしているというのだろう。
「ほくろ」
 彼女はそーっと人差し指を伸ばして、あたしの目の下にちょこんと触れ、笑った。
「な、何よ」
「ほくろ、ある」
「そうね。あんた達にはこんなものないわよね」
「名前、何……ですか?」
「カトリーナ」
「キャットって、呼んでいい?」
「はあ? いや、いいけど」

 彼女はサリアンナというらしく、その名前はいつか冒険者が集まる酒場で聞いた事があった。要するに同業者であり、カジノには単なる博打好きとして訪れたのだという。本当にそんな趣味のエルフが存在するのかは疑わしかったが、好きな理由を聞いてみると「揺らぐ確率がどう転がるか、全部見てみたい」などという珍妙な答えが返ってきたので、あたしは早々に追究を止めてしまった。ただ、彼女が純粋に好奇心旺盛であるのは確かなようで、その様子が自分の嫌っているエルフ像とまるで違う分、心のどこかでは好感を抱いていた。
「うちのパーティにも一人、メンダークスっていうムカつくのがいるんだけど、あんたとはえらい違いよ。何でもかんでも知った風な顔した奴でさ」
「メンダークス……。その呼び方、誰が?」
「呼び方も何も、本人の名前よ」
「メンダークスって、えっと……罪人って意味。名前じゃないけど、禊を終えるまではそう呼ばれる」
「ふうん?」
 その時思い浮かんだあいつの顔は、偉そうで、陰鬱で、やっぱり無性に腹が立った。きっと勝手に悩み、一通りの事はもうやった気になっていて、頭でっかちに何かを諦め逃げているに決まっているのだ。
「あんたも、頭捻ってたら何でも答え合わせ出来るなんて思わない方がいいよ。人生、全部が運試しみたいなものなんだから。一度出た目は変わらないけど、生きてるならラッキーよ」
「じゃあ、私もラッキー?」
「そりゃそうでしょ。もしあたしが助けてなかったら、今頃あんた湾の底だし」
「……それ面白い考え。面白い」
「この世の真理ってやつね。覚えときなさい」
 サリアンナは尖った耳を震わせて興奮していた。そうしながら暫く口の中でブツブツと何かを呟いた後、先に歩き出したあたしを追って付いてきた。
「人間は、何でギャンブル好きなの?」
「あんた、お喋りね」
「気になる……。運試しの運試しは、運試しなのに」
「……まあ、多分じっとしていられないのよ。あんまり先の事を考えない為にもね。あんたらと違って暇は多くないから、遠くばかり見てると変なものまで目に入ってくる。だから手元だけ見て喜んだり怒ったりって、したくなるんでしょ」
「怒ったり、したいの?」
 その時、思わず彼女の表情を気にしてしまったのが、厭だった。あたしはきっと、自分が下らないと思っている人間の一面でも、エルフに卑下されたり哀れんだりされるのが堪らなかったのだ。しかしサリアンナの白い顔の中には、そんなものは見当たらなかった。
「本当は表か裏かなんて、どっちでもいいんでしょうね。こうなって欲しいって強く思うと、それが実現するかしないかの、どっちかになる。そうすると当面はやる事がはっきりするから。あんた、あそこに寺院の人間がいたのに気が付いた? ああいう所にいる金持ちは皆、とんでもない額を寄進してるのよ。魂の救いってやつの為に。奴隷商人だったら、奴隷を売って儲けたお金を山程積んで、司教に頭を下げにくる。馬鹿でかい宮殿に住む王様だって、妃と離婚する許しをもらおうと、何度も何度も使いを送ってきた事があった。したいなら、すりゃいいのに。勝手にさ。でもそれじゃ怖いのよ。そういうのと向き合っていくよりも、目に見える結果が欲しい。駄目だったなら、もっとお金を用意して願えばいいから」
「変なの」
「うん。でも、それで世の中回ってる。貧しい人への施しだってそこから出てるし、あたしもそんなお金で拾われたからね……。慈善事業だなんて笑えるけど、明日生きてるか分からないような身の上だと、自力で浮かび上がる未来より余程まともな話に聞こえてくる。だから同情を買おうとして、自分の身体にわざと傷を作ってる奴もいたっけ」
 下水の流れる音が大きくなってきたが、見えるのは近くの壁やそこらに空いた穴ばかりで、この狭苦しい路地からは一向に抜け出せそうもなかった。道はいつも緩やかに曲がり、時折行き止まりへ向かうであろう細い枝道が延びているだけで、果ては見えない。住居跡へ駆け込んでいった鼠を眼で追うと、そこはかつて地下牢として使われていた時期があったらしく、朽ちた鉄格子の向こうから痩せた瞳がじっとこちらを見つめ返していた。
 ああしておけばよかった、こう出来たらよかった、そんな空想に人生を費やすのはまっぴらご免だ。しかしこの光景は、ずっと前からあたしの事を追い掛けていた。どんな時も、どんな所にも必ず潜んでいて、ふとした瞬間に肩を叩いてくる。そうして、色々な事を思い出させる。例えばあの修道院で、所作や楽器の使い方を教えられていた時間。あたしはいつも外ばかりを見て、自分の中の強い焦燥を抱き締め、その穏やかな時間を引き裂こうと必死だった。
 あれから、どれだけ経ったのかは分からない。暗がりと、同じような道と、足下の瓦礫が、それを見えなくしていた。だが引き返すという訳にもいかなかった。引き返す場所などない。だから耳を澄まし、しつこくしつこく瓦礫を押し分けて進んでいくしかないのだ。
 その内に道は下水とぶつかった。流れの脇に足を下ろして見てみると、上の方は二股に分かれているのが分かった。
「さて、困った。上らなきゃいけないのは確かなんだけど、どっちか見当も付かないわ。……あんた、どっちだと思う?」
「……右?」
「じゃ、左ね」
「え……」
「だって、あんた賭け事弱いじゃん」
「うぐ……」
「ははは。ま、いいじゃない。とにかく足を動かして行ってみるしかないって事よ。そうでしょ?」

 太陽は既に地平の彼方にあった。地上にはすっかり影が落ちていたが、空は深い青をしてまだ明るい。静かだった。涼しげな風が木々の葉や草を揺らす以外には、何もなかった。
 かつてトランブルが興る前にこの辺りを治めていた小国、その貴族達の屋敷が、ここ西地区の坂の上にあった。主はとっくにいなくなったのに、拡大を続ける市街に取り残されるように手付かずなのは、この豪奢な建築物や庭園に歴史的価値を認めた王国によって上地が行われたからだった。だが皮肉な事に、それは古い値打ちを新しい持ち主から守りはしたものの、結果としてヒトの関心というものをもろに時の流れへ晒してしまった。形は残ったが、日々の手入れは忘れられていき、いつしか荒れ果てていった。
 庭は特に美しかったという。この為に水を引く大工事が行われたのを始め、館よりも多くの財と労力が注ぎ込まれ、壮麗な景観が一から作り上げられた。そこには街まで直接降りていく道があって、これを歩けるのは貴族だけであると誇示するように、彼らはいつも堂々と着飾って行き来していたらしい。
「カトリーナ!?」
 あたし達が泥だらけで出てきたのは、その道だった。剣の柄を握って驚いているのは、セスだ。
「どうしたのさ、その格好!?」
「ドレスの事? それともそれがボロボロだって?」
 顔に張り付いた髪を後ろにやっていると、サリアンナがあたしの背に隠れたのが分かった。
「……キャット、これ誰?」
「大丈夫、これはうちのパーティのリーダー。追われるような事になったらヤバいから、ここで待っていてもらったの」
「いや、こっちは昨日急に言われただけで、事情も何も知らないんだけど。追われるって誰に?」
「万が一の話よ。結局追っ手には見付からなかったから、気にしないで」
「気にするよ! まさか変な事してるんじゃ……。その娘は?」
「サリアンナっていってね、旅の道連れってやつかな」
 セスとサリアンナは、不思議そうな顔をして眼を合わせた。あたしはそれを尻目に伸びをして身体をほぐした後、左右の胸に手を突っ込んで二つの小さな宝石を取り出した。あっ、とサリアンナが声を上げた。
「それっ、どこで?」
「拾ったってところね。……本当、ケチな拾い物だわ」
「これを拾っただって? そもそも二人はどこから出てきたんだ? あの穴は……」
「もう! へとへとなんだから今は質問なし! とりあえず、今日はこれで美味しいものでも食べに行くわよ! いいでしょ?」
「ちょっ、カトリーナ!」
「ほら、歩いた歩いた!」
 彼の口を塞ぐと、あたしは両腕で二人の肩を持って無理矢理歩き始めた。あの棄てられた街の方を振り返る事はしなかった。向こうの巨大な屋敷も、今では夜に沈んでしまっている。はっきり見えるのは、すぐ側にある困ったような笑顔と、遠くに浮かぶ街並みの灯だけだった。
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