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『天地創造を詠む』 Appendix Story

『帰るべき所』

「やいっ! このゾンビ、淋しそうな眼をしてるじゃねえか」
 ベルーガの表情を窺い知る事は出来なかった。彼は周囲にある機器の駆動音に耳を傾けるように沈黙したままだった。そうして暫くしてから、冷ややかに言った。
「不必要な人間は殺し、本当に必要な人間だけを生かせばいい。それだけの話だ」
 人類の夜明けとまで称された彼の学説が、多くの人々を救ったというのは間違いではないだろう。それから生まれたワクチンやコールドスリープ技術が数え切れない人命を守り、優れたAIの開発によって、かつて人間社会が出せなかった様々な答えが導き出されたという。
 死への恐れを解決しようとした事は、人が人生と向き合うのにあたって、どれ程の勇気を与えたろう。ひょっとするとベルーガは、ナギよりも余程、人類の為に行動を起こしてきたのかも知れなかった。
 それなのに、そんな彼もあっさりと死んでしまった。回転し続けるモーターに、決して止まらぬ機械に飲み込まれて、まともに声を上げる暇すらなかった。技術というものを求め続けた先で、僅かにバランスを崩し、一歩踏み外したばかりに。
「やいっ! このゾンビ、淋しそうな眼をしてるじゃねえか」
 暗闇に向かって、ナギはもう一度叫んだ。自分はずっと、そんな理由で戦ってきたからだった。

 黄昏と暁が同時に降り注ぐような光に目覚めると、周囲には柔らかな草が黄金色に照らされていた。葉には露が煌めいて、その光彩が僅かな風で揺れて分散し、優しくナギの頬を撫でている。
 そこは彼の故郷だった。遠くに見える茅葺き屋根は、粉挽き小屋のものだろう。とすると、脇の方には川が流れている筈だったが、今いる場所が小さな丘状になっている為に草向こうに隠れ、そのせせらぎが耳をくすぐるだけであった。
 ナギは向こうにある大きな岩を眺めながら、あの辺りから下りられたっけなと、ぼんやり考えていた。それは細く急な斜面で、子供達にしか扱えない道として親しまれていた。そこから川沿いに砂利道を歩くと横穴が空いていて、奥行きはないものの広く抉られているから、悪戯をして叱られた悪ガキがよく逃げ込んだりした。
「よう、ナギ! 今度は何をやらかしたんだ?」
 振り向くと、そこには荷車一杯の作物を運ぶ若者が立っていた。
「忙しい時期なんだから、仕事の邪魔だけはしてくれるなよ? ほら、見てくれ。こんなのがまだ何十個とあってよ。何とか今日中に終わらせなきゃならないんだ」
「今日中って……、もう……」
「ん、どうした? お前、何だか雰囲気変わったな。まあ、いいや。ナギ、明日の青年会、顔出せよな。お前がいないと、ウズの奴が威張って仕様がないからよ」
 青年会は古くから続く若年の集いで、この町の仕事道具の管理や衛生問題、そして祭事での役割分担についてなんかがよく議題に上がった。別にそこで話し合われた事が直接何かの決定権を持つ訳ではなかったが、議論に参加していると如何にも世間の一端を担っている心持ちを得られるから、一人前を自負する大抵の若者は、友人と連む目的も兼ねてよく参加していたのだ。
「それじゃあ、また明日な」
 彼が荷車を引いて行く先には、いつの間にか仕事をこなす人々の姿が現れていた。それは皆一様に熱心で、日々の労働を衣服のように身体に直接纏って、一体となっているように見えた。彼らの持つ生業への親しみは、あくまでも肉体的なものであって、感情は付け入る隙間がないらしく、そこには淋しそうな眼をした者も、不必要な者も誰一人としていなかった。
 ナギは思わず、自分の手の平を見つめた。そうしてそれが本当に自分のものであるかを確かめるように、握ったり開いたり、光に向かって透かしたりしてみた。

 彼女の家まで歩いている間は、変に穏やかな気持ちだった。しかし扉の前に立った瞬間、ナギは突然恐怖を覚えて動けなくなってしまった。
 エルが中にいて、出てきてくれるだろうという事には確信があった。しかしそれがもし、かつて自分と一緒に過ごし、いつもお節介を焼いてきて、彼のヤンチャを口では叱りながら、こっそり笑い合ってくれた彼女でなかったとしたら。いや、本当に怖ろしいのは、そんな記憶すらも複製されて持たされている可能性があるという事なのかも知れない。
 ナギは暫し立ち尽くし、やがて怖ず怖ずと戸を叩いた。
「はーい」
 最初、エルは眩しそうに眼を細めて、逆光に立っている人物が誰なのかを見定めようとしているみたいだった。だから二人の間は、視線が交わっているように見えて、どこか廓寥として果てがなかった。しかしじきに、彼女は眉根を寄せて口を開いた。
「ナギ、どうしたの、その顔? またあの嫌な夢を見て、うなされたの?」
 その言葉を聞いて、ナギはほんの少し躊躇ってから、淋しそうに笑った。
「ああ。最近おかしな夢を見るんだ」
 部屋の中にはお茶の香りが漂っていて、ここには今の今まで、連綿と続く生活があったように感じられた。エルは棚の前へ行くと、小さく鼻歌を歌いながらカップを選び取り、ポットからナギの分を注いだ。優しい湯気が、席に着いた彼を包み込んだ。
「ちょっと待っててね。簡単にご飯作ってあげる」
「いいよ」
「珍しい。具合悪いんじゃないの?」
「平気さ。のんびりしてろって」
 テーブルの上には、火の入っていないランプが置いてあった。それは静かだった。いや、それだけではない。読みかけの古い本も、煤けた竈も、絨毯の模様も、お気に入りだと言っていた小物入れも、彼女が毎日向き合う機織り機も、そこで織られている生地も、全ては沈黙していた。
 それは故郷というものが皆そうであるように、ものを言わなくても、何もかもが通じるからだった。その事に気が付くと、時間は孤独なものではなくなるらしい。
「ナギ? ナギってば。どうしちゃったのよ。ぼーっとしちゃって」
「あ、ああ。ちょっと考え事をしてたんだ」
「ねえ、ナギ。こうして何もしないでのんびり出来るっていう事が、幸せっていう意味なのよね……」
 確かに、それは更なる広い世界で見てきたどんなものよりも、美しかった。けれど、一度は遙かな冒険に夢を抱いたナギにとって、その先で見つけるものとしては、あまりにも残酷だと思わずにはいられなかった。
「ここ、ほつれてる」
 気が付けばエルは隣に立って、彼の服を引っ張っていた。
「脱いで。縫うから」
「いいって」
「縫わせて」
「いいんだよ! もう、そんな事をしなくても……」
 エルは服の端をちょこんと摘まんでいただけだったが、決して離そうとしなかった。いつだって我が儘は自分の専門だったから、ナギは彼女がこんなにも意固地になっているのを見た事がなかった。
 指先が微かに震えているのに気付いた時、エルはそれを隠すように離れ、窓際へ行ってしまった。彼女の背はか細かった。今更そんな事を知ったナギは、自分がこれまで彼女の姿をじっと眺めた事などあったろうかと記憶を辿ろうとした。しかし、毎日駆け回ってばかりいたあの頃の景色は、いつの間にか手が届かないくらい遠くへ過ぎ去ってしまったようだった。
 立ち上がって傍まで行っても、エルは顔を逸らして表情を見せたがらなかった。
「夜になってしまうのが怖いの。何かしていないと、いられなくて……」
「俺も怖いさ。当たり前だろ。暗闇が怖くない奴なんか、いるもんか」
 生き物はね、皆一人になるのが怖いから、暗闇を嫌うの……。
 それは一頭のカモシカが教えてくれた真実だった。ナギがエルの肩に手を掛けると、エルはその身をそっと寄せた。二人はまるで雪山にいるみたいに温もりを求め合った。そうしていると、互いの鼓動を感じ合えるようだったが、或いはそれは部屋の隅にある柱時計が時を刻む音が、そんな風に聞こえただけなのかも知れない。
 刻々と、時は過ぎていく。あのカモシカは死んでしまった。フィーダも、ロイドも、ペルルも、メイリンも、メイホウも、超上空を飛んだ渡り鳥達も、皆死んでいった。だが今になって浮かんでくるのは、泣き言など決して口にしない、彼らの堂々とした最期であった。
「あたしも頑張って生き延びて、ここを出るから……。あなたもしっかりね……。さあ、行きなさい。あなたは旅を続けなくちゃ」
「出来る限りの事はやってみる。航空事故の歴史では、八千メートル以上の高空から落下して助かった例もあるんだ」
「ナギ、また後で会おう」
 誰もが役割をこなし、生きて、死んで、そうして星が回っていくらしい。死ねば彼らのやってきた事が嘘になるなどという事はなく、誰かに、世界に必ず与えているその影響こそが、彼らという存在の本当なのだった。
 こうして時計の音を聞いていれば、分かる。ナギは自分がじきに消える事も、自分が助けて生き延びた者達だっていずれは死ぬ事も、既に知っていたのだと気が付いた。何もかもが、そんなように機能を全うして、失われてゆくのである。英雄や神が求められて、必要なくなればまた忘れられていくように。今まで何の為に戦ってきたんだと、誰かが叫ぶ文句すらも、大いなる過程の一つに過ぎない。
 自分の役割というものを自覚するのなら、そこにはきっと間違いも正解もなく、ただ立派にやり通せたと胸を張る勇気だけが残るだろう。何はともあれ、喜びも悲しみも湛えて、時は流れてゆくのだ。
 世界は残酷で、美しかった。光も闇も、もう片方がなければ生まれる事すら出来ない。
「見て、あの子達」
 ナギの肩に頭をもたせかけたまま、エルが呟いた。
 窓の外には数え切れないクリスタルブルーが漂い、流れ、無数の色彩を振りまいていた。子供達は原っぱを駆け回りながら、それを指さして笑ったり、手を伸ばして捕まえようとしている。大人からはいつも、クリスタルブルーが出ている時は外で遊んではいけないと、口うるさく言われているのに、そんな事はお構いなしなのである。その好奇心は、誰にも止める事が出来ない。
 やがて窓から二人が見ているのに気が付いたらしく、子供達は飛び跳ねたり小さな手を振ったりして、口々に何かを言った。勿論聞こえはしなかったものの、エルには分かっていた。
「きっと、あなたに遊んで欲しいのよ。皆、ナギの事が大好きだから」
 彼女がくすくすと笑うと、そのルビー色の髪が控えめに揺れて、綺麗だった。それから二人は眼を合わせた。いいのかとナギの瞳が問うと、エルは肩を竦めて照れるようにして頷いた。彼女は零れ落ちる涙を拭おうともせず、それに気付いてもいないかのように微笑んだので、その笑顔はまるで俄雨に架かった虹のように輝いていた。
「じゃあ、行こう」
 ナギがその手を握り、二人は外へ出ていった。部屋には柱時計の音だけが残り、それは決して歩みを止める事なく、時を刻み続けた。
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