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『wizardryで物語る』 Appendix Story
007 セス・アビントン

「今朝は早かったんだね」
「明日だって早いわ。明後日もね」
 リリアナは寝ぼけ眼の僕を見て、うららかに笑った。それから窓を開け、その健康的な色をした肌に光を受けながら、「もうお昼よ?」とくすぐったそうに片方の眉を下ろした。
 彼女のブルネットは、陽に照らされるとより完璧な黒に近付くらしい。パタパタと部屋の片付けを始めたその姿を見ていて、僕はそんな事に気が付いた。肩口まであるその髪は、今は無造作に後ろでまとめてあった。店で使う前掛けもしたままだったので、食事を済ませたらすぐに戻るように思われた。
「忙しいの?」
「そう! 女将さん働きづめだから」
「あの人はずっと働いているね」
「好きなのよ。若い頃からちっとも休まないんですって。女将さんの前だと、こっちも休んでいられないの」
 リリアナは、開けっぴろげで、情熱的な娘だった。それに大抵は幸せそうな顔をしていた。口にする話題は田舎から出てきた娘らしい浮ついたものが多かったけれど、生活は地に足が着いていて、僕がこの町で出会った誰よりも話しやすかった。それから、とても良い声をしていた。彼女の声と明るさには、芯が通っていた。
 外からは人々が生活する音がよく聞こえた。ゆっくりと馬車を行き来させる音や、金属を強く叩く音、商売人が張り上げる声と、洗濯女の歌。遠くと近くの間から、それらは僕の耳に届いていた。穏やかな日だった。
 リリアナは部屋の明るい所に立つと、昼下がりの猫みたいに大きく欠伸をした。一方僕は控えめなくしゃみをしていて、彼女はその少し垂れ気味の大きな眼をこちらに向けて、少し呆れたように、椅子の上にあったシャツを投げて寄こした。
「もう服を着て寝ないと、風邪引いちゃうからね」
「気を付けないとね」
「あーあ、私も冒険者になりたいなあ。お昼にこんなにのんびりしてられるなんて!」
「それは駄目だよ。……とても危ないから」
 彼女は初め、きょとんとしていた。だが僕の顔を注意深く覗き込むと、僅かに表情を曇らせた。
「また怖い夢を見たの?」
「……迷宮は怖いよ。ジンさんはもう元気だし、本人も何事もなかったかのようにしてるんだけどさ。でもやっぱり身近な人が灰になったりすると、ひどく堪えるんだ」
「うん」
「冒険者になる事に、変に憧れたり浮かれてた訳ではないんだけれど。それこそ、何事も慣れだって言い聞かせて、覚悟してたくらいでさ」
「上手にやれてるじゃない。あなた、頑張ってる」
 しかし、必死だった。月日はそれをよく知っていた。いつの間にか、また一つ季節を超えていたのだ。
「セスを見てると、凄いなってよく思うの。だってあなたって、とてもそんな事が出来るような人に見えないんだもの。それにほら、お友達がみんな、とても変わってるでしょ?」
「賑やかなんだ。この間も、ジンさんが助かったと思ったら、それを見ていたメンダークスさんが何か思い出したみたいに敵に突っ込んでいっちゃって。強い人なんだけど、何て言うか、死に魅力を感じててね。それでまたカトリーナが怒っちゃって」
「メンダークスさんって、こんな顔の?」
 リリアナは頑張って眉間に大きな皺を作り、指で目尻を吊り上げて、口をへの字にした。自分が知る限りの怖い表情を集めて、それを大真面目に再現しようとする彼女を見て、僕は思わず笑った。
 彼女からは、たくさんの花の香りがした。爽やかな酸味が弾けたかと思うと、甘い誘惑が広がって、それから瑞々しい涼しさが吹き抜けた。それはこの地方に咲く濃い色合いの花を何十種類もブレンドした伝統的な香水で、彼女のお気に入りだった。
「それじゃ、ご飯にしよ。早く着替えちゃって」
 僕の寝癖を手で軽く整え、リリアナは部屋を出て行った。
 表のカフイ小路は、この町の中心部であるトランブル通りからも近かった。暮らしはちょっぴり良くなった。今はこの窓から見える景色が気に入っている。
 シャツのボタンを留め、ズボンにベルトを通していると、よく子供達の遊び声が響いているのに気が付くのだった。彼らは何かひどく可笑しく、恐ろしいものでも見つけたのか、悲鳴を上げながら大喜びし、死に物狂いに走り回っては笑い合っていた。最も素朴なその声は、全ての音に溶け合うらしい。
 僕は窓枠に腰を下ろして、すっきりとした部屋の中で唯一片付かないままの、無造作に立てかけられた盾と、散らかった机の上を見やった。リリアナは、それを触られると僕が嫌がるのを知っているのだ。
 盾にはアビントン家の紋章が描かれていて、龍や砦や魚が複雑に組み合わさった図形が、かつて繰り返された血と婚姻による闘争を煌びやかに語っていた。この町へ来た直後に僕の手から奪われ、売られ、塗装され、そして迷宮を彷徨っても、それは消えていなかったのだ。僕は僕が背を向けた紋章に、地の底で再び出会った。
「剣は人を殺せない」
 一番上に古い文字で記されたモットーは、深い暗闇の中でもそう言い続けていたらしい。父は毎日のように、その血生臭い解釈を子供達に聞かせた。それが大嫌いだった。やがて体が大きくなり力が付いた僕は、彼に抗う事を覚えた。その長く酷い対立の中で、父は逝ってしまった。あの恐ろしかった男が、痩せて小さくなっていたのに、僕は棺を覗いて初めて気が付いたのだった。これが本当に良い盾だと、今分かったように。盾は、今この時も立派だった。
 机には、あの懐かしいエリーへの手紙が溢れていた。僕は今でも妹の事を、迷宮を抜けて出会う太陽と同じように愛し、尊敬していた。しかし言葉は紙屑になって積み重なるばかりで、一向にここから出て行かなかった。巨大な屋敷に残してきた幼いエリーに、今の自分が何を言えるのか、見当が付かなかったのである。この部屋から、一体どんな優しい言葉を送れるというのだろう?
 だから、片付かなかった。そして僕は、その盾を手に迷宮を進み、いつも一通の手紙を懐に入れて町を歩いていた。それは安っぽい埋め合わせのようにも思えた。

 リリアナは、店へ戻る前に食器を見たいと言い出した。
「お洒落なものが欲しい。その方がご飯も美味しくなるでしょう?」
 彼女はこうやって日々を豊かに暮らす努力を惜しまなかった。僕が今身に付けているブラウンのジャケットも、鍔の狭い帽子も、彼女が選んでくれたものだった。
 僕らは集合住宅が建ち並ぶ狭い通りを歩き、そこの小川に架けられた石橋を渡ろうとしていた。橋の袂には街路樹が植えてあった。そしてその木漏れ日の下に、一人の女性が立って、じっとこちらに視線を投げていた。
 美しい人だった。とりわけその長い白金色の髪は、見ていると吸い込まれるような気さえした。それはまるで無駄がなく真っ直ぐで、芸術的に切り揃えられていた。表情は堂々としており、瞳は青く輝いている。
 彼女は常にこちらを見つめているらしく、僕は歩きながらその事に気が付き、横を通り過ぎようという時になってついに立ち止まった。するとその女性の影に、妙な男を見た。男は長身で、腕を深く組み、木の幹と彼女が作る陰影にすっぽりと収まっていて、明るい所から窺おうとしても暗い像が静止しているようにしか見えなかった。
「あの、何かご用?」
 不思議がったリリアナは、笑顔で首を傾げ話しかけた。だが相手に近付くのは僕が制止した。よく見ればその女性も妙な格好をしていたのだ。袖のない薄手のショートコートはその純白に金色の刺繍とボタンが壮麗に映るのだが、その下から見える脚は、動きやすそうな密着した生地に覆われており、腰からは長い刀が二本下げられていたのである。上品そうなドレスグローブもすらっとしたズボンもいずれもが真っ黒で、どんな光の下でも彼女の完璧なモノクロームは相手の目を眩ませるらしい。
「セス・アビントンと話がしたい」
「それは確かに僕ですけど、貴女は?」
「アイリーン・バセット」
 名前は聞いた事があった。酒場で見た気もしたが、互いに特別派手な活躍をしている訳でもなく、これまで言葉を交わした事もなかった。
「最近、お前の話を耳にする機会が多くてな。多くは出世する人間へのくだらない嫉妬だが、中には興味をそそられる話もある。例えば、急に使い始めた盾や、その紋章の話だ」
「……セス、大事なお話?」
「女、お前はこの男の夫人か?」
「え! ち、違います」
「では、しばらく借りるぞ。もし入り用なら、このサイードを使っても構わない」
 そう言って合図すると、彼女の後ろにいた影が蠢いたため、リリアナは慌てて首を振った。
「結構です! これから仕事へ行くだけだもの……」
「あ、リリアナ!」
「セス……。また後でね。お店、来るでしょ?」
 僕が頷くと、彼女はこっそり深呼吸をして手を振り、すぐに行ってしまった。それは気分屋だが賢明な人がよく見せる、素っ気なさだった。
 アイリーンは何事もなかったかのような仕草で、男から花飾りの付いた白い帽子を受け取っていた。それを被り木陰から出てくると、彼女は口元だけで笑んで、「行くぞ?」と言った。男はどうするだろう? そう思った時には、彼はまるで暗がりに溶けたかのように、見えなくなっていた。

 トランブルの北地区には、大きな建物と入り組んだ道がひしめいていた。しかしその中に時たま、こんなような小さな緑の空間が現れる。それは公園と呼べるような上等なものではなく、言うなれば街の残骸で、かつて存在していた家々が屋根も壁も崩れ果て、鉄で出来た扉なんかを残して木や花に包まれている場所だった。その鉄扉も、魔法によって溶けて変な形をしていた。これはこの国が出来た時の戦争で、西の大国と戦って負った傷なのだと聞いていた。
「要するに、歴史を持たぬ人々の感傷だ」
 アイリーンは吐き捨てるように言った。しかし一方で、泥で汚れたその金属を眺める眼には、どこか満足げな態度が見て取れるような気もした。それは戦い死んだ者への称賛に似ているなと、僕は思った。つまり、名誉ある武人や君主達が生涯を通じて抱く心情の事だ。
 僕達はしばらく小道を歩き、そして話した。
「炎の剣は、また一組の冒険者の手に渡ったそうだ」
「あれは良い剣です」
「ならば何故手放した? 業物を手に入れた訳ではなさそうだが」
「うちには凄い前衛がいますから。僕は、みんなを守りたかったんです。だから盾を」
「優しいのだな」
 彼女は草の上で立ち止まり、その唇は綺麗な弧を描いた。僕は何故だか無性に嬉しくなって、内ポケットから手紙を取り出すと、それを見つめながらぺらぺらと喋っていた。
「もっと優しくて強い人を知っているからなんです。妹の事です。彼女は駆けっこが速くて、晴れた日の空を見ると、その青がきっといつまでも続くのだと信じるような子でした。歳は離れていましたけど、いつもお気に入りの人形と一緒に僕の後に付いてきて、どんな話にも混ざろうとしていました。ですがある日、彼女は両手をスカートの前に組んで、手持ち無沙汰にてくてく歩いていたんです。お人形はどうしたの、と聞いても決して答えてくれませんでした。後から分かったのですが、彼女は僕の友人達にその大切な人形をあげていたのです。あの頃、僕は社交界の伝統的なルールの中で、孤立していました。妹はそれに気が付くと、自分だけで僕と同じくらいの青年達のところへ行って、『お兄ちゃんと一緒に遊んであげてね』と頼んだというのです。相手はずっと大人です。それに、彼らが意地悪な仕打ちをするのも見ていた……。これ程の勇気を、僕は他に知りません」
「その手紙は?」
「彼女への手紙です。まだ、出せなくて」
 アイリーンは指先で手紙を攫うと、それを顔の前に持って行ってじっと観察した。
「……まだ、とは?」
「僕は彼女の事を残してきてしまった。これ以上傷付けたくはないんです」
「そうか。なるほど」
 僕には瞳だけが見えていた。それからアイリーンが手紙を下ろすと、彼女はまだ微笑んでいて、こう言った。
「やはり、さもしいな」
「え」
 言葉は継げなかった。彼女の近くには人の背と同じくらいの、崩れ損なった石壁があって、先の方には木が多く、幹の間からは広場の脇を通る道路が明るく見えていた。
「今度からそのつまらない優しさの事は、自己満足と呼んだ方がいい。自分の問題からは逃げ続けているのに、他人が困っていると積極的に助けようという人間がよくいるが、あれは決着を先延ばししつつ、何かを解決する快感を得たいだけなのだ。お前が手の届く範囲で心地よくやれる事ばかり探しているのは、それに似ている。そんなものは意志などではなく、状況に従って動いているに過ぎない」
 秋の澄んだ空気の中を、アイリーンの威厳ある言葉だけが響き渡っていた。
「使命感も罪悪感も、真摯ではない。卑屈だ。哀れな話などその辺に溢れかえっている。それを可哀想と嘆く者達も、掃いて捨てる程いる。そういった連中は、所詮達成不可能な中立性を装いつつ、選り好みした悲劇だけを見て涙を流すのだ。そして労せず手を伸ばせる相手に優しさを投げてやる。なのに自分の行動の結果に、関心を持たない。よりよい世界を夢見ていても、野心すら抱かない」
 彼女はその指で僕の首筋を撫でて、顎を包んだ。僕の手紙は彼女の肉体を滑り、地面に落ちていった。
「神様のつもりか? それとも何もかもを諦められる運命の奴隷か? 答えてみろ、盾の一枚で何が出来る? 自分と他人の命を使って、今お前は何をしている?」
 シャリシャリと金属が滑る音が聞こえた。するとアイリーンは僕の顎を引き寄せて、その正体をよく見せてくれた。彼女はもう片方の手で二振りある刀の内の一つを引き抜き、その銀光をこちらにそっと近寄せたのだ。二人の体はもはや密着し、刃は僕らに抱かれていた。
「血だけが物を語れるのだ」
「……貴女は、何のためにこんな事を? 僕に一体何を?」
「冒険者など辞めろ。そして私と結ばれろ」
「むすばれ……?」
「結婚だ」
「結婚!?」
 それは自分でも驚いてしまうような声で、周囲がざわついたような気がしたけれど、見回しても誰もいはしなかった。きっと風が葉を揺らしただけだったのだろう。
「全く、こんな者が本当にあのアビントン家の子息だとはな。だが安心しろ。私を妻にすればお前も変わる。それにお前となら、美しい娘が産めそうだ」
「な、何の話をしてるんです!」
「今や我がバセット家には力がない。だが代々築き上げた人脈が完全に死んだという訳ではない。政争に敗れた事で去って行った家々も、金と兵隊を動かせるようになれば話は別だろう。そういう現金な者達は目が良い。アビントンの名を見れば、すぐに価値が分かる」
「僕は……冒険者なんです! 仲間もいます」
「いい加減に気付け。お前がやっている事は、道楽だ」
 アイリーンの顔はもうすぐ触れ合いそうなくらいに近かった。しかし先に触れたのは鋭い刀であり、それは僕の頬に小さな痛みを与え、血を一滴流れさせた。その赤色は涙のように音もなく落ち、やがて彼女の掌に吸い込まれてしまった。

「いやあ……。つまりさ、何か悩み事とか相談事とか、そういうのがあるんじゃないかな、って。ほら、お前も毎日大変だろ? リーダーとして、な? 人間関係とか……」
 細く狭い喧噪の中で、カイは店奥をちらちらと見つつ、言葉を選んだ。さっきから彼は、腕組みをしながら時々鼻をかいたり、グラスを口に運んではすぐテーブルに戻したりしていた。
「というか、お前休みの日とか普段何してる? 例えば、今日とか? 今まであんまりそんな話してこなかったよなあ。まあ、お互い今更見損なうだの何だのって訳じゃないしさ、一度色々話してみるのもいいかもな。うん」
 そう言って隣に座ったグレースを見る彼は、何だかいつもと違った歯切れの悪さで、ひどく曖昧な様子に見えた。とはいえ、僕は僕でもう疲れ切っていて、今日はそれを気にする余裕もなかった。だから目に映るものを皆、酒場の煙たさのせいにして、その煙に巻かれるようにぼんやりと相づちを打っていた。
「……考え事ばかりだったんだ。ひどく疲れたよ」
「へえ! そりゃまた、どんな……」
「ねえ、セス君。結婚を考えた事はあるの?」
「お、おい、グレース!」
 何故か焦るカイを尻目に、僕は頭の後ろに手を組んで伸びをした。
「そりゃあ、想像した事はあるよ」
「それって、どの女性?」
「おいおいおい、俺が折角……」
「誰とかじゃあなくて、好き勝手思い描いていただけだよ。……そんな事ばかりだったのかな」
 夜が更けて、この店の光に照らされるまで、ずっとこんな風に考えながら町を歩いていたのだった。だけど結局、僕の人生のどこからも答えは返ってこなかった。今もこの疑問は薄暗がりを漂っているだけで、静かだった。
 しばらくして、ふと気になって前を見ると、カイはあたふたと困り顔をし、グレースは「だってカイ君、話が全然進まないんだもん」と口を尖らせていた。それから彼女は興味津々な顔付きで机に両手を突き、身を乗り出してきた。
「セス君、あのアイリーンって人とどういう関係? 好きなの? 結婚するの?」
「え、どうしてそれを知って……?」
 カイは天を仰ぎ、目を覆っていた。そして少しするとその指の隙間からこちらを覗いて、観念したような息を一つ吐いた。それから離れた席に酒を運んでいるリリアナの方をそっと見やり、彼は声のトーンを一つ落とした。
「たまたま、彼女と通りで会ったんだよ。そうしたらお前が綺麗な人に連れて行かれちゃったって言うんでな。まあ大丈夫だろうとは言ったんだけど、不安がってたし、相手が同業みたいだから、調べてみるって約束しちゃったんだ。そうしたらお前が広場であの女と抱き合ってるわ、結婚だなんだと叫んでるわでな。しかもあのラブレター、随分手を掛けて仕上げたやつらしいじゃないか。彼女に聞いたよ」
 それで真相を突き止めるために、この酒場の前で偶然出会った振りをして、一緒に食事する事にしたのだという。グレースは、こういった類の話を対処する助っ人として呼んだらしい。
 僕は最初、呆気にとられていた。だが向こうにリリアナの元気のない顔を見て、慌てて説明を始めた。アイリーンとは今日初めてまともに喋ったのであり、しかも彼女は僕が家と断絶状態にあると知るや否や、全ての興味を失ったかのように去って行ってしまったのだと。
「何だそりゃ。それじゃあそいつの目的は、本当にお前の家柄だけだった訳か」
「そうなんだよ! とんだ災難さ」
 頑張ってこっちを見ないようにしているリリアナのために、僕は殊更強く言った。
「なーんだ。それじゃあこのお話はもうおしまいって事?」
「あ、でも……」
 と、言いかけて僕は口をつぐんだ。どうせ最後に見たアイリーンの複雑な表情については、僕なんかが説明出来るはずもないし、何せ今のリリアナを見ていると、彼女の気持ちを晴らすにはまだまだ骨が折れそうだからだった。それは少しばかり卑怯な考えにも思えたけれど、今はそんな気持ちすらもこの煙が紛れさせてくれた。
 あたふたと言い分を並べ立てた僕が面白かったからか、カイは変な緊張を解いて、椅子の背もたれに肘を掛け、笑った。
「まあ、そりゃあそうだよな!? そりゃあそうだ! お前にそんな甲斐性がある訳ないんだから! ははは!」
「あはは。カイ君が言わないの」
「え!?」
「あ、そうだ。その美人さんとキスはしたの?」
「してないしてない!」
「本当かなあ? カイ君、ぶっちゃけて言うと?」
「うぅーん……!」
「ちょっと!」
 時計はゆっくりとだが、しかし着実に進んでいった。僕の想いも、彼女の心も、何気ない全ての会話も、何もかもがその一秒一秒なのだった。グラスに入った安い酒は、ほんの少しだけそれを滑らかにしてくれた。だが一足飛びは出来ない。夜はあくまでも果てる事を知らず、しかし段々と過ぎていった。
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