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『サンサーラ・ナーガを詠む』 Appendix Story

『アムリタとの出会い』

 宿の裏手にある公衆便所から出ると、一匹の野良犬と眼が合った。時刻はまだ人気のない早朝で、犬の方もぼうっとした様子で足を止め、首だけをこちらへ向けていた。
 便所が少し高い位置に作られるのは、雨が降れば全て下に流れていくからだ。野放図に手を加えられた建物が入り組んだ道を作り、歪な背格好で決して陽が当たらない陰を落としているせいで、地面は濡れ、脇に流れるドブとの違いを失っていた。このハワプールは文字通りアクパーラ大陸の中心だったが、こうして下町の隅に淀んだ景色は、世界の果てのどん詰まりにしか見えなかった。
 野良犬は一向に動き出そうとせず、吠えもせず、ただ所在なげにしていた。その頼りない姿は、まるでどこへ行ったらいいのか分からないとでも言っているようだった。時折恨めしそうに瞳が光り、いっそ追い立ててくれればそちらへ逃げるのにと、犬はそんな風に何かが与えられるのを待ち続けていた。そうしてついぞ、自分からどこかへ行こうとする事はなかった。

 まだ人や馬車が本格的に行き来する時間ではなかったので、空気に埃っぽさはなく、代わりに準備中の屋台が様々な湯気と匂いを空に吐き出していた。そのずっと向こうには、今日も一本の煙が真っ直ぐ昇っている。
 あれは火葬の煙だ、とベルカは聞いた事があった。この大陸では命が巡り廻るという考えが広く行き渡っていて、死後に長く留まる墓を建てるような風習は稀だった。遺体は概ね河畔に運ばれて火葬され、骨も灰も尽く水の中へと投ぜられるのだが、中でもそれがハワプールを囲む大湖である事が強く望まれた。この下町と呼ばれる地区も、元々はそうして霊場として使われていた所に、そこで働く日雇い労働者らが居住し始めて大きくなっていったのだという。
「何やってんだ? 蚊に餌でもやってんのか?」
 声の方に目を向けると、屋台の親父が殆ど抜け落ちた歯を見せながら、かすれた音を立てて笑っていた。ベルカは苦笑いしながら両腕を適当に払うと、崩れた石段に腰掛けて彼の仕込みが終わるのをのんびりと待った。
 じきに地面で火が焚かれて、歪んだ鍋の中では次々と骨魚が揚がっていった。粗悪な油はすぐに使い物にならなくなって、そのままドブへと捨てられる。ドブは下水へ流れ込み、下水は川へ、川は湖へ。
「どうだ? 慣れたか?」
「何とか食っていけてます」
 ベルカは唐揚げをバリバリ頬張りながら、首を少し下げて答えた。
「もう結構長いもんなあ。でも、ろくでもない連中には気を付けろよ」
「分かってますよ」
 まだ子供っぽい顔が得意げに口を尖らせたので、親父はその視線を追ってみた。すると少し離れた道の端で、三人の浅黒い男達がたむろしているのが見えた。彼らはちらちらとこちらを窺いながら、話などしていないのに揃って笑みを浮かべていた。いやもしかすると、それは単に笑ったような顔をしているだけで、本当は何の表情も浮かべていないのかも知れなかった。親父は肩をすくめた。
「そういうのじゃあない。変な事を覚えさせようとするのが、必ずいるんでな。年寄りでもないのに、あの世に片足突っ込んでるような奴らだ。ヘラヘラして、何かを知った風で。自分が楽しくやる為に、他に自分みたいなのを欲しがるんだ」
 はあ、と分かったような分かってないような声を出して、ベルカは噛み砕けない骨を吐き捨てた。それから何となく、この街に転がり込んできた頃の事を思い出していた。
 田舎から身一つで出てきた世間知らずが都会を歩き回った結果、彼はあっさりと騙されてしまったのだった。親切を疑うような事は知らなかったし、タダの物なんてない、という単純な経済学すら理解していなかったものだから、恐ろしい取り立て人が目の前に現れるまで自分が借金を背負わされたなどとは夢にも思っていなかった。
 彼女に出会ったのは、そんな連中に追われている時だ。同じオリッサ村の出身だというのが嬉しくて、下町にある狭い安宿の一室に招き入れられると、一晩故郷の話に花を咲かせた。が、朝起きてみれば彼女はどこにもいなくなっていて、残り僅かしかなかった所持金も全て消え失せていた。さんざ探し回ったベルカが結局宿で待っていると、夜も更けてから帰ってきた彼女は、悪びれもせずにこう言った。
「あなた、まだここにいたの?」
「僕のお金、どうしたんだよ」
「そんなもの使っちゃったわよ。大体、全然なかったじゃない」
 彼女は本当に何も持っていなかった。しかしベルカにも行く当てがなかったので、もう盗まれる金もないしと、なし崩し的に二人は同じ部屋で寝起きするようになったのだった。とはいえ、やはり女の方はのらくらな生活を送っていた為、夜は大抵どこにいるのか分からなかったし、朝出掛けたベルカが夕方戻ってくると、いつの間にかベッドで眠りこけているといった具合で、両者の生活にはそこまでの接点がなかった。
 今日も、屋台で朝飯を済ませてきたベルカが部屋の扉を開けると、彼女はそこにいなかった。薄暗い陽射しが風に揺れていて、まちまちの色に塗り固められた壁のひびと、低いベッドや褪せた敷物を照らしているだけだった。金目のものがあると持って行かれるから、ここはいつも空っぽなのだ。

 狩ってきた獲物を取り扱ってくれる店の向かいには、金貸し業者ニコ・ローンがあって、その頑強な石造りの建物が今日も強い夕陽に照らされていた。この商業地区の中でも一際目立つ、丸い笑顔が描かれた巨大看板が、ベルカには少し苦々しい。何せ初めの頃は、稼いだ金はまさに右から左へと、借金の返済に充てられていたからだ。とにかく頭を下げて、商売道具とも言える武器やら防具やらを見逃してもらったっけとぼんやり考えていると、背後から呼び掛ける声があった。
「おー、少年。終わったか?」
「今、待ってるところです」
 厚い唇の周りにたっぷりと髭を蓄えた男は、ベルカのいる安宿の住人だった。下町の宿屋には住人などと呼ばれるような、どこから来てどこへ行くのかさっぱり分からない、永遠にその生活を続けているのではないかと思うような者達がいて、彼はその中でも顔利きの古株だった。
「何だ、先に回せって言ってきてやるよ」
「いや、大丈夫ですよ。急いではいないんで」
 こういう何でも扱う店で取引をするには、最初は人の繋がりというものが必要で、狩人を生業とするこの男の存在にベルカは随分助けられた。彼が店主に話を通してくれるのを見ながら、街では目には見えない人脈みたいなものが随分力を持っているらしいと、そんな教訓めいたものまで教えられた気がしたのだ。しかし当の男はベルカの名前をいつまで経っても覚えず、未だに少年などと呼び付けていた。
「少年、これから宿でやるんだけど、来る?」
「今日はちょっと」
「何だ、付き合い悪いじゃない」
 男はちょっとびっくりしたような眼付きでベルカの事を暫く見つめた。それからボソッと、まあいいやと呟いてから笑ったような顔を作ると、ひらひら手を振った。
「とにかく俺達はやってるから。顔出せたら、出して」
 ベルカが頷くのを見るか見ないかの内に、彼はさっさと行ってしまった。その後ろ姿が人混みに消えてから少しして、ようやく店主が順番を呼んだ。台の上にはもう消耗品がいくつも並べてあって、受け取る金の一部は今日使った物資の補充費としてその場で支払われ、残りも殆どは装備を整える為の貯えにしなければならなかった。
 アルダが預けられている竜の保育所は、そこから歩いて数分のところにあった。その性質上、大都市ハワプールの中でも一二を争う規模の施設で、分厚い石壁と並外れて高い天井が物々しかったが、中に入ると並べられた柵付きベッドで世話されているのは体長数十センチの幼竜ばかりなので、何とも大袈裟でちぐはぐな印象を受けた。実は捨てられた成竜を引き取って何かやっているのではないか、という噂もたまに聞かれたが、少なくともベルカはそんなものは見た事がなかった。
「おや。アルダちゃん、お待ちかねだよ」
「大人しくしてました?」
「もう元気一杯」
 忙しそうに動き回る保母さんが、悪戯っぽい笑顔で通り過ぎていったので、ベルカも思わず笑みをこぼした。近付くとアルダが気が付いて、嬉しそうな声を甲高く上げた。傍まで寄ってきて短い手足をバタバタさせる様子は、何か自分の得意な動きを見つけて、それを見せびらかそうとしているみたいだった。
「お前、頼むぞ。おっきくなれよ」
 頭を撫でて、早速獲物袋からおおたまじゃくしやピラルクを出してやると、小さな竜は夢中になってガツガツ食べ始めた。このようにアルダは健康そのものだったが、しかし身体はなかなか大きくならなかった。こうして次々と美味そうに平らげていくのを見ていると心にくすぐったい幸せを感じるのだが、反面今の生活がどうなるかは全くアルダ次第だったから、言いようのない焦燥感のようなものも腹の底に沈殿していた。
 それはこの日々や、ともすると自分自身に対する漠然とした疑心とも言い換えられた。例えば、アルダの為に今度玩具でも買ってやろうかなどと思いながらも、毎日獲物を食べさせてやる際にその値段ばかり気にしている。若いベルカには、これが矛盾に思えるのだった。
「……なあ。僕って竜使いか?」
 そっと、仕切りの向こうには聞こえないように言って、ベルカはベッドの上から竜使いのヘルメットを手に取った。王宮から授与された時は本当に誇らしかったこの竜使いの証も、今ではもう少し強い兜が手に入った事で、アルダの遊び道具になっていた。考えてみれば、その功績を認められた盗賊退治だって、王宮の蔵から盗み出した剣と盾で成し遂げたのだ。生き延びるのにがむしゃらだったとはいえ、ハワプールの下水を住処としていたあの盗賊達と自分と、一体何が違ったというのだろう? いやそもそも、こんなもの昔はお城で簡単にもらえたのだ。
「痛っ」
 気が付くとヘルメットを持った指がアルダに引っ掻かれて、そこから血が滲んでいた。どうやらお気に入りを取り返したいらしく、ぎゅうぎゅう引っ張っている。仕方ないので近くに置いてやると、アルダは早速それに頭を潜り込ませたり蹴っ飛ばしたりし始めた。
「お前、食うか遊ぶかどっちかにしろよ」
 口をもぐもぐさせながらムキになって遊ぶものだから、その姿があまりにも自分のやりたい事を好き勝手やっているように見えて、可笑しかった。
「喉に詰まっちゃうぞ。……あれ? 今食べてるのって、何だ? あ!? お前、水猫食べちゃったろ!」
 柵にかけてあった獲物袋を見ると、それは見事な切り口で破られていた。思わず大声を出してしまった為に職員が覗き込んできたので、ベルカは彼が通り過ぎるのを待って、声を落とした。
「馬鹿。これ、いくらすると思ってるんだよ」
 わざとらしくしかめっ面を作って言ったのに、アルダはクリッとした瞳で見返すだけで、何にも分かってなさそうだった。そして知らんぷりしたような鳴き声を上げると、また遊びに興味を移してしまった。
 その態度にベルカは思わず力が抜けてしまって、もう怒ったように見せるのは難しかった。本当を言えば、アルダが喜んだり楽しそうにするのが嬉しかったのもあっただろう。それで気持ちの落としどころを探すように、暫く眉間に皺を寄せたまま変な顔をしていたのだが、最後には降参するように口を開いた。
「竜使いのヘルメットは凄いな。竜が噛んでも、全然平気だ」
 アルダは抱き抱えるようにヘルメットを囓ったまま、キョトンとしていた。確かに、一人と一匹には必要ないはずの、間を埋めるだけのおかしな言葉だった。

 街はすっかり薄紫色の世界で、空は明るく地上は暗かった。宿の正面の方では騒がしい声が飛び交っていたので、ベルカは裏手から入っていく事にした。部屋の中は静かで、自分が一息吐いた残響がいつまでも耳から離れないでいた。
「あなた、まだここにいたの?」
 彼女はいつもどこかに行って居ないか、居たとしても眠っていたので、ベルカは最初驚いて言葉を返す事が出来なかった。彼が腰を下ろしていた敷物には微かな光が差していたが、彼女は暗がりのベッドで背を向けていて、表情は見えない。
「うん。駄目なら、出て行くけど」
「駄目ならって、あなたここへ友達でも探しに来たの?」
 普段の彼女は、あまり笑わない人だった。気ままで、投げ遣りで、不幸せで、周囲の人々が扱いあぐねているような、そんな感じがあった。それは勿論、初めて会った時にまんまと騙されたような少年が持った曖昧な印象に過ぎなかったが、過ごした時間や経験の違いというものが彼にそう感じさせたのなら、それは一片の真実だったかも知れなかった。
 何か考えているのか、言い淀んでいるのか、それとも寝てしまったのか、彼女はなかなか次を話そうとはしなかった。そうすると潮の満ち引きのように、今度は外の喧噪が徐々に大きくなっていくのだった。
「あたし達、前にオリッサの話をしたでしょ」
「うん。最初に」
「あたし、本当はあの村が大嫌いだったの。見渡す限り真っ平らで、田んぼと水車と川と……今思い出してみても、他には何にもない。蛙とか虫とか、牛みたいな蛙とかがずっと鳴いていて、風が強くなるとそれすら聞こえなくなった。何日も何日も。あそこにいると、どんどん世界が萎んでいくような気がしたわ。誰かと喧嘩したり、嫌な事でも言われたら、一日中その事ばっかり頭の中に浮かんできて、そういうのが堪らなかった。だから、出て行った」
 溜息が空気を震わせて、それが周囲の闇を緊張させたようだった。
「後の事なんて何も考えてなかったけどね。どこかで、何かが、決着を付けてくれるような気がしてたのよ。この狭苦しい青春のようなものに。でも実際は、そんな事なかった。いつも気付いたら同じ文句ばかり言ってて、分かっていても同じような明日がどんどんやって来た。物事に決着を付けられるのなんて、死んだ人だけなのよね……。そういえば、あなた何になりたかったんだっけ?」
「竜使い」
「ふうん」
 ベルカは彼女の反応をどう取っていいか分からなかったので、それ以上口を開く事は出来なかった。すると廊下から「少年ー!」という男の声が聞こえて、足音が近付いてくるのが分かった。それが妙に長い時間だった。いよいよ扉が開けられるところでベルカが立ち上がろうとすると、彼女がさっとその脇を通り抜けていった。
「少年、いるかー?」
「あの子、今夜はいないわよ」
「何だ、まだ帰ってないのか」
「あたしもう用意しなきゃいけないから、邪魔しないでくれる?」
「何が用意だよ。どうせ何にも要らないだろ」
 彼女は鼻を鳴らして、男の冷笑をさっさと遮ってしまった。それから部屋の中に戻ってきた後は、先程の会話などなかったかのように、二人とも何も喋らなかった。しかし着替えを済ませて出て行く直前、彼女は一度だけはっきりとベルカの瞳を正面から見つめていった。
 翌早朝、ベルカはその宿を発った。伝説の竜使いと呼ばれるアル・シンハを自ら訪ねる為に、単なる風の噂を当てにして、街を南へ飛び出していった。

 腰元に食らい付こうとした肉食魚を斬ると、それは水中にいた為に致命傷を与えられずに、驚くべき勢いで距離を取ってまたこちらを窺い始めた。手負いの身体がそう見せるのか、変わらないはずの魚眼に恐ろしい敵意が宿っているように見える。
 増水した沼地を渡りきったベルカは、巨大な木の根に転がり上がって天を仰いだ。しかし息を整える暇があれば、一刻も早く傷の手当てをしなければならない。彼は一人なのだ。
 状況は酷く、あれから何日過ぎたのかもはっきりしない程だった。山を幾つか越えたくらいから、都周辺では見た事もない怪物に追い回され、滅茶苦茶に逃げ続けてここまで来てしまったのである。逃げ足の速さは一級品だったので生き延びはしたものの、もはやいつ限界が来てもおかしくなかった。
 しかし、ここが南の半島の付け根に位置する、雨の平原である事は確かだった。ベルカはそれを身を以て知っていたので、木々が風を教えてくれるとビクッとして顔を上げた。雨が来る合図だ。すぐに出来るだけ高い所にある木の下で、テントを設営しなくてはならない。
 この辺の雨は身体を焼くので、雨雲が通り過ぎるまでは全く動けなくなる。天幕の隙間から覗けば外は明るく、遠くは真っ青に晴れていたが、近くはザアザア降りで、少し離れて見える雲は凄い速さで横に流れていた。こんなように空をじっと睨んで、素早く進む、とにかくこの繰り返しだった。
 テントの中に戻って岩に座り、ベルカは磨り減った神経を休めようとしたが、湧いてくる虫がそうさせてはくれなかった。既に体中を刺されていたが、それでも耳の周りを飛び回られるのは我慢がならない。手で緩慢に払い続けていると、程なくして下の泥が濡れ始めた。そうするとすぐにそこに流れが生まれ、終いには地べたに置いてあった軽い荷物がプカプカと浮かび始めた。
 そういえば、止血処理がまだ途中で、早く終わらせなければならないのだった。が、それがなかなか捗らない。自分の為だというのに、まるでやる気が起きないのである。
「何でこんな事をしなくちゃならないんだ?」
 赤い血を前にして、彼はそんな疑問に邪魔されていた。疲れ切っていて、落ち着きを失っていたのだろう。だが、初めての事ではなかった。
 彼はこういう時いつも、自分の身体よりもアルダの事を心配している方が楽だった。出立前に保育所へ寄って出来るだけの事は頼んだのに、アルダはちゃんと食べているだろうかなどと、そんな事ばかり考え始めていた。
「アルダ」
 半分という意のその名は、自らの半身と思って付けたものである。しかしもしかすると、それは旅の道連れが欲しかっただけで、何かと一緒なら夢を追い掛けられるという気でいただけなのかも知れない。一方現実は孤独で、このアル・シンハに教えを乞いに行く旅も、アルダの為であると押し付けるのには無理があった。これは、ベルカの夢だった。
「何でこんな事をしなくちゃならないんだ?」
 この大それた夢は気付いたら心の内にあって、いつ、どうして竜使いになろうと決意したのかは、全く思い出せなかった。自分ならなれる、とそんな風に信じ込む出来事だって一つもなかったのだ。
「いや、村の卵だ」
 村に伝わる竜の卵は、いつでもベルカの手が届く場所にあった。が、あれは丸きり偽物だったのである。ダチョウの卵だったし、そのダチョウも夢のように何処かへ消えてしまった。いやそれにしても、竜の卵とダチョウの卵を間違えてしまうなんて事が、本当にあるのだろうか? それも何世代にも渡って、村の宝として大切にしてきたなどと。ひょっとして、自分の動機だってそれと同じように、偽物だったり、空っぽだったりするのかも知れない。
 その瞬間だった。鋭い竜の咆哮が大地を揺らした。
 ベルカはハッとして周囲を見渡したところで、自分が疲れて眠ってしまっていた事に気が付いた。そこは相変わらず薄暗いテントの中で、雨がその生地を打って音を立て、大腿部の傷には鈍い痛みが走っていた。しばし耳を澄ませた後、ベルカは一度強く息を吐いてから、脚の手当を終わらせた。
 するともう一度、竜が啼いた。それは甲高い、アルダと似た声にも聞こえた。
 外に飛び出すと、真上の空は晴れ渡っていて、ベルカは思わず目を細めた。それから大慌てで荷物をまとめ、声がしたと思った方角へと駆け始めた。
 脚は酷く痛んだ。しかし少なくとも、その痛みは紛れもない己自身のものだった。そしてそれを押してでも竜を探そうとする意志も、きっと自分のものに違いなかった。いつの間にか明るみの中を細かい雨が通り過ぎていたが、ベルカは立ち止まる事をせず、進みたいように進み続けた。
 当てもなく、確証もないままに好き勝手歩いたベルカは、やがて小高い場所にある大木の陰に一人の女と一匹の竜を見つけた。彼女は鮮やかな赤い髪をして、動きやすい鎧に身を包んでいた。息を切らし、なかなか口が利けないベルカの事をじっと待ってから、彼女は穏やかに口を開いた。
「私はアムリタ。竜使いになる為に、シャクンタの村を出た。……君は?」
「同じです。竜使いに憧れて、オリッサの村を飛び出しました」
「竜使いの道は遠く険しい……。多くの者が修行に耐えきれず、道を外れて崩れ竜使いになっていった……。君は大丈夫か?」
 ベルカは頷いた。
「……雨が上がった。この子がお腹を空かせている。もう行かなくては」
「待って! 待って下さい」
「同じ道を歩むなら、またどこかで会う事もあるだろう……」
 緑の鱗を雨粒と太陽に煌めかせ、竜は身を翻した。それは遠く空と大地の間に美しい光を引いたようだった。ベルカは立ったまま、彼女達が去って行くのをいついつまでも眺めていた。
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