002「エリス・クロード」
小さな舷窓の中は濃い青で満たされ、そこに月だけが浮かんでいた。
それはまるではめこまれた絵のようで、私が居るところとは距離も時間も隔絶された世界にしか見えなかった。
こうして上空を滑る艦も、ここから見える景色も、こんな風に時々ふと現実感を失う。
ほんの少し前まで間違いなく私の人生が実在していたコロニーは、月とは反対側に位置しているはずという認識が残るだけで、この青の中にはなかった。
あそこにあった、ちっぽけな青春。
毎日友人関係に必死になって、今のグループから振り落とされないように、それなりに過ごせている学生生活が消えてしまわないようにと、普通だの変わってるだの正しいだの悪いだの、何とかそれを口にする側でいようとしていた。
自分の位置というものを無くさない為に、見栄を張って、ニコニコして、時には皆と一緒に何かを見下して。
後から考えれば、後悔する事ばかりだったのだ。
例えば、お世話になっていた叔母のズレたプレゼントを、友人達に笑われるのが嫌だからと、持っていく振りだけをして隠した。
あれが今どこにあるのか、私は知らないままだった。
あの日、私達の日常におけるそんな窮屈な戦争は、ニュース映像の向こうから現れた人型兵器と本物の戦争によって、一瞬で吹き飛ばされてしまった。
皆の詳しい安否は、未だに分からない。
私は無我夢中で逃げた先の部隊に受け入れられ、こうして避難民として何とか彼らに付いていっている。
あそこにあったはずの、ちっぽけな青春。
世間の中心で不安げに寄り添った友情や、狭い家の中の不器用な思い遣りや、夢見がちで言葉にもならなかった恋。
そんなようなものが、この空のどこかには確かにあったはずなのだ。
「見つかりました?」
「え?」
「エリスさん、大丈夫ですか? ボーッとしていましたよ」
視線を移すと、いつの間にかショウ・ルスカが黒い瞳でこちらを覗き込んでいた。
心配そうに上目遣いを向けるこの少年は、コロニーが戦火に包まれた際に家族を失い、私と共に避難をした子だった。
辛い境遇であるはずなのに、利発そうな顔立ちがそれを隠してしまうところがあって、今も一緒に艦内の手伝いをしながら私の心配までしているみたいだった。
「ごめんごめん、平気。頼まれてたのは見つかったから、後は私が持っていくね。ショウはもう終わりでいいよ」
「けど……」
「また、すぐに大きな戦闘が始まるみたい。しっかり休まないと。眠れなかったら、他の子と遊んでもいいんだよ。ユリウスやカチュアと」
膝に手を突いてそう言うと、ショウは恥ずかしがったみたいに曖昧な笑顔を見せた。
しかしそれは居心地が悪そうに笑ったようにも思えて、私はそんな寂しい印象の正体を確かめる勇気が持てず、ただ彼の肩を遠慮がちに撫でる事しか出来なかった。
先の戦闘からは既に二時間近くが経過し、警戒配備は解かれていないものの、艦内無線がオープンだった戦闘中に比べれば随分落ち着いた雰囲気になっていた。
その上、まだ殆どの者が自分の持ち場で忙しくしているらしく、私の立ち入れるような場所はどこも閑散としていて、最後に入った医務室も静かなものだった。
一見して医療班の人が見当たらなかったので、私は荷物を置いたはいいものの何となく収まりが悪い気がして、室内をキョロキョロしていた。
そこで少し開いたカーテンが目に入り、ふっと覗き込んだ時だ。
げっ!と悲鳴のような声がして、中から背の高い痩せぎすの男の人が飛び出してきた。
「ニードルさん!?」
「お、おぉ。何だ、嬢ちゃんか……」
「どうしたんです? 怪我しちゃったんですか?」
「はっはっ、なーんだ嬢ちゃんだったのか。いやなに、もう元気一杯よ。嬢ちゃんこそどうした? お使いか?」
彼はゴソゴソと手元を動かした後で、大袈裟に胸を撫で下ろしながら笑った。
迫力ある顔なので歯を見せて笑うと少し怖いのだけれど、同じ時期に艦に乗った事もあって、今までもよく声を掛けてくれた人だった。
「どうだ、ここの奴らにはこき使われてないか? 変な事を言われたら、遠慮なく相談しろよ。俺が何とかしてやるから」
「あはは。良くしてもらってますよ」
「なら、いいんだけどよ。軍人ってのは、誰の頭の中にも『アンテナや小太鼓』があると思い込んでる連中だからな。横柄で、ろくなもんじゃねえ。あいつらはいつも……おっと、まずい。それじゃあ、俺はこの辺でな。困った事があったら、すぐ言えよ!」
部屋を出て、通路を歩きながら話していた私達だったが、ニードルさんは向こうから来る人影を目ざとく認めた途端、さっさと角を曲がっていなくなってしまった。
呆気に取られてそれを見送った後で前へ向き直ると、やって来たのは難しい顔で話し合っているハワード・レクスラー艦長とジェシカ・ラングさんだった。
「お、お疲れ様です」
こんな時、部隊の中の民間人はどう挨拶するのが適切なのだろう。
それが未だに分からない宙ぶらりんな自分を自覚していたから、端へ避けながら出した声は思ったよりもずっと小さかった。
しかし二人はそれを聞いて足を止め、心なしか互いに表情を緩めたようだった。
「お疲れ、か」
「本当、変に自分の仕事以外も溜め込まないようにね。先生」
「先生はよせ」
「あの、ハワードさんって先生だったんですか?」
「いや、違う。ほら、彼女が勘違いするだろう」
私が不思議そうに質問すると、ハワードさんはびっくりして首を振った。
いつも眉間に皺を寄せている彼のそんな反応が面白いのか、ジェシカさんは後ろで悪戯っぽく口の端を上げていて、その場には何だか私でも見知った日常みたいなものがあった気がした。
「まあ、悪口って訳じゃあないんだよ」
その後、私とジェシカさんは展望室に広がる大きな窓の前で、飲み物を口にしていた。
「艦の運営経験っていうかね、操舵だの通信だの、そういうものに一通り精通してる人って、この部隊では彼しかいないから。それでそんなあだ名を拝命して、何でもかんでも任されるのさ。おまけに本人、真面目な人だからね」
「尊敬されてるんですね」
「いやあ、どうかな。軍隊ってどこでも、やっかみがあるから。階級や部隊や現場、そういうものの隙間にね。ハワードが艦長をやらされて、面白くない奴もいるかもな」
そんな風に語る横顔は、窓向こうの空の中で少し自嘲気味に映った。
それは戦闘機乗りとして長年戦場に身を置いている彼女自身の、一種の孤独が見え隠れしたのかも知れない。
「それよりあんた、あのニードルって男には気を付けなよ」
「え、優しい人ですけど……」
「あれと平気で話をしてるのなんて、あんただけだよ。大体、本名も名乗れないような奴がまともなはずないでしょ。違法なジャンク屋だったって言うなら、まだマシな方さ」
「はあ」
あまりピンときていない様子に、彼女は嘆息した。
「あんただって、これからは自分の身は自分で守らなきゃならないんだ。どこに行くにしたって、いつまでもお客様って訳にはいかないからね。そりゃ私だって、子供に向かって戦争に出ろとは言わないけどさ……」
それは明らかに、この艦のMSパイロットであるユリウス・フォン・ギュンターとカチュア・リィスを意識した言葉に違いなかった。
MS戦というものは、時に彼らがその小さな身体で戦っているという事実を見えなくしてしまう恐ろしいものだ。
しかしそれでも私の脳裏には、今回の戦闘中に乗機の補給で戻ってきていた二人の姿が、鮮明に残っていた。
忘れられない、あの焼き切られた金属の臭いや、オイルの臭いと共に。
「どうしてだ……! シミュレーションと実戦は違うっていうのか!?」
「ユー! 泣かないでよー!」
「泣いてなんかいない!」
「だってー!」
確かにユリウスは嗚咽を漏らすような様子ではなく、歯を食いしばり、自分に対して怒っているようだった。
しかし当の本人も気付いていないかも知れないと思う程、彼の目端からは音もなく涙が流れ続けていたのである。
そしてそれを見て喚いているカチュアの方こそ、顔をくしゃくしゃにして、今にも大声で泣き出しそうだった。
「……咄嗟に撃ち返してしまったお陰で、計算していた作戦がポシャったらしい。死にたくないと思って、生きようと思って、引き金を引いたから」
ジェシカさんは紙コップを握り潰した。
「でもね、あの坊やは戦士だよ。その後ドダイで敵中を駆け上ってきて、ホワイトベースに張り付いていた機体を一撃で撃ち抜いたんだ。出力を多少上げているとは言っても、ジムでね。ザニーに乗ってサポートをやってた時から、射撃は本物だと思ってた。あれがなかったら、連邦軍は危なかったかも知れない」
「強いんですね、二人とも……。カチュアも、ユリウスの眼になりたいからって、偵察機に乗ってるんですもんね」
「強すぎるんだよ。妙に冷静で、気味が悪い時がある……。きっと、そうならざるを得なかったんだろう。大人を信用出来ないで育ったんだ」
「確か、本当の兄妹じゃないんでしたっけ」
展望室からは、あの倉庫として使われていた船室とは比べものにならない程近くに、そして見渡す限りに、この月明かりの青を望む事が出来た。
しかしそれはあまりにも広く、身を寄せるようにして微かに煌めく星達すらも、寒々しかった。
いや、そもそもあの光と光の間には、想像も絶するような深い距離が存在するのだ。
「あんた、あの子達と話をしてやってよ。ホンゴウやウッヒも今回はよく支えたけどさ、あの二人のは所詮ガキのお守りだからね。あんただったら、きっと力になれるよ」
その時のジェシカさんは、これまでに見せた事がないような優しい眼付きで、それは何かを思い出しているみたいな表情でもあった。
「さて、大人は忙しいんだ。うちの隊長、調子に乗ってナギナタ振り回してたら、機体を潰しちゃってさ。次の出撃は大変になりそうだよ」
肩をすくめた彼女が扉の向こうへ消えた後、私はもう一度眼前の空に目を凝らした。
そうして、そこにポツンと立つ少女を見た。
有機プラスチックで出来た窓にうっすらと映った少女は、物も言わず、じっと不安げな瞳でこちらを見つめ返していたが、私はそれを勇気付けるように拳を握ると、一つ鋭く息を吐いてから部屋を出て行った。