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『Hollow Knight』 Appendix Story

『Pale Kings』

 誘い込まれたのだ。
 追い掛けていたつもりが、付け狙われていた。暗闇ではしばしば、こういった事が起こる。まるで円筒印章のように、粘土板の平面に押し当てられた印影か、それとも筒の曲面に彫刻された印章か、それを認識出来るかどうかで物事が簡単に引っ繰り返ってしまう。
 すんでの所で躱した鋭い爪は、淀んだ空気を巻き込むようにして見えなくなった。すぐに足音が動き始めたかと思うと、それは増殖していくように辺り一面を走り回る。離れようとしても、時間稼ぎにすらならないだろう。暗闇は距離を飲み込み、それは一直線にやってくる。
 釘による一撃が鈍く閃く度、彼の追ってきたものが眼前に現れては消えていった。それは鏡のように逆さになって、空っぽな眼で見つめ返してくる。不意にその眼窩が光の色で満たされたかと思うと、燃えるような液体が噴き出して、襲いかかってきた。
 地面の焼ける音、金属を打ち付ける音、風を切る音、硬質な関節が重みを支える音、そして唸り声。視野が不明瞭であれば、音はその分増大する。命の奪い合いは戦いと呼ぶよりも騒音と呼ぶ方が相応しく、彼らは流れ込んだ濁流の中をもがいているようだった。
 が、暫くしてそれも止んだ。静けさに残されたのは節々の断片や、窪みに溜まった酸性の液体で、その中には彼の付けていた小さな仮面も転がっていた。それはまるで、自分を見下ろす物言わぬ存在に視線を送っているみたいだったが、やがて近付いてきた足音の主によって拾い上げられ、持ち去られてしまった。

 黄金色の六角形には、損なわれない美しさがある。かつてある高名な学者は、それを「本能として最も素晴らしいものであり、使用するロウの経済性という点からも絶対的に完全なもの」と表現したらしいが、確かに久しぶりに見るハイヴの住処は奇麗だった。
 本能として、という部分の意味をホーネットは考えていた。互いに支え合う六つの辺は、強固な構造というだけでなく、空間を効率的に利用する点においても無駄がない。これ程の建築技術を、生まれながらに知っているなどという事があるのだろうか。
「お嬢様、次の荷が通り過ぎるまでお待ち下さい」
「ありがとう。皆働き者ね。ちっとも変わらない」
「お嬢様の元気そうなお姿を見られたので、張り切っているのですよ」
 しかしその言葉とは裏腹に、ハイヴリング達は淡々と仕事をこなしているように見えた。それは目の前で会話したばかりの個体とて例外ではない。前方へ姿勢を正した時にはもう、それまでの笑みは消え失せていて、そこには職務に対する意識しか存在しないようだった。
 ハイヴリングは自らの子を残さない。彼女達は、コロニーを維持する為だけに生を受けるからだ。ならば、その先天的に与えられた巣の建設や運営に関する高度な知識を知性とは呼べないように、例えば彼女達が女王の子供を抱く際に見せる愛情もまた、自我から発露した本当とは言えないのではないか。そんな淋しい疑念に、幼少の頃の記憶は上手く答えてくれなかった。
「ここに来た時、父は歓迎されたのかしら」
「さあ、それは私達には分からない事でございます」
 長針を構えて直立する騎士階級の横を抜け、ホーネットは玉座の間へと通された。入室を許されていない個体だったらしく、入り口で去って行くハイヴリングを確かめた後、彼女は女王ヴェスパの亡骸と向き合った。巨大な体躯の横にある庫からは、消費される事がなくなっても補充し続けられる蜜が溢れかえり、歪な輪郭を形作っていた。
「母さん、戻りました」
「あなたはいつも忙しく飛び回っているようですね」
 ホーネットが集中すると、彼女はすぐにヴェスパの魂を感じる事が出来た。五感を重ね合わせるように研ぎ澄ませば、あらゆる連続性が意味を失い、遍く時を一目で見渡して語り掛ける事が可能となる。これこそ、彼女が扱う夢見術だった。
 二匹は最初、二言三言と再会を喜ぶような言葉を交わしていた。だがすぐに、女王はあの頃と全く同じような鋭さで、話さなければならない本題へと切り込んだ。
「あなたの父について聞きに来たのですか……? あの臆病な王は、結局ここへは一度も訪れませんでしたよ」
 ホーネットは驚きつつも、それを決して態度には出さなかった。
「あなたの存在を求めたのは母親、つまり獣達の長です。そこには勿論、民を守る為の痛ましい計算があったのでしょう。あの頃は既に、汚染が巣にまで及んでいましたから。ですが、そうした取引で生まれたあなたを、彼らは確かに愛していました。白い奥方も含め、その間でどんな想いが渦巻いたかは知りませんが、あなたがここへ来たのは、間違いなくあなたが大切にされていたからです。だからこそ、ムシと獣という血生臭い関係の中よりも、そのどちらにも与せず独立自治を保ってきたハイヴが選ばれた」
「白いお母さんにも、よく遊んでもらいました」
「宮殿に行きたがるあなたを止める気にはなりませんでしたよ。臆病な王も、自分の元へ来させるのは内心喜んでいたのでしょう。けれど、獣達の巣へ行かせる事は絶対に許さなかった。あれははっきりと、彼らの野蛮さを軽蔑していましたから」
 ヴェスパの口調はやはり隙のないものだったが、その響きには過ぎた日を懐かしむような穏やかさが感じられた。普段口数の多くなかった彼女が、そんな風に語ってくれるのを聞いていると、ホーネットはこの時間が長く続いて欲しいとも思った。
 しかしそれを振り払ってでも、確かめなければならない事があった。
「おかしな事を聞くようですが……。母さんは、全てのハイヴリングが見聞きしたものを知っているのですか?」
「そんな事はありません。もしもあなたが訪ねてきた理由についてでしたら、単に母親としての勘ですよ。私達は同じ方向を向きながら、それぞれの役割をこなし、全体として一を構成しているに過ぎません。……恐らく、あなたが想像しているものは精神の拡張や統合を可能とする、自己の遍在化とでも言うべきものでしょう。であれば、それは種の進化ではなく個の進化ですから、個別には生きられない私達とは全く段階の異なるものです。そんなものが本当にあり得るとすれば、ですがね」
 安堵か落胆か、複雑な表情を見せたホーネットに、女王の魂はこれまでとは明らかに違う、柔らかい声を掛けた。
「気を付けなさい。追い掛けるものに取り込まれないように。そして、これだけは忘れないで。ここにいる私達は全員、本当にあなたを愛していましたよ」

 トラムに他の乗客の姿はなかった。規則正しい揺れが雑音を奪い、外が動き続けている事で車内はより一層静止していた。ぼんやりした照明に照らされたシートの色艶は、往年と変わらぬ上等なムシの外殻によるもので、手摺りや窓枠の細やかな意匠に到るまで、豪奢で最先端の交通手段ともてはやされた当時のままだった。
 長年放棄され、突如稼働し始めたものとは思えなかった。最近になって何者かが動かしたらしいが、正体はまだ分かっていない。かつて旧王国には職人達のギルドがあって、その修理の腕前は目を見張る程だったが、彼らが今も自分達の情熱だけを頼りに活動しているとでもいうのだろうか。
 目の前で扉が開き、ホーネットはハッとした。乗ってからまだ幾ばくも経っていないつもりだったのだ。車内スピーカーからは音楽が微かに流れていて、それは一体いつから聞こえていたのか、そもそも誰が流しているのかと考えようとして、彼女はすぐに降りなければならない事を思い出した。
 プラットホームはがらんとしていた。その素晴らしい技術力を一目見ようと、ムシ達で混み合っていた頃では考えられない光景だった。トラムは元々、王国がその偉容を誇る為に造らせたもので、乗車券も王が許可を出した者にしか販売が許されていなかった。あの時代、栄華を極めたハロウネストには成り上がり者が幾らでもいたが、彼らがどんなにジオを積んだとしても簡単には手に入らなかったのである。だから空いた車輌を大観衆が見送るというのが常だった。
 乗ってきたトラムが発車してしまうと、辺りの明るさはぐっと落ち込んだ。街灯は管理が甘く、ルマバエが群れを作ってしまってバチバチと明滅している。一瞬の明るさが、それ以外を更に暗くして、世界は息が詰まるように狭かった。
 細長いホームの先にはベンチがあった。そこには背中の丸いムシが項垂れており、こちらが歩いていく間も微動だにしなかった。ふと、あれは死骸かも知れないとホーネットは思い始めた。王に命じられて駅の建設に従事し、死ぬまで働き続けた者が大勢いたらしい。
 ならば、彼らはずっとここにいたのだろうか? 華やかな言葉が飛び交う群衆の中でも、こうしてひっそりと蹲っていたのだろうか?
 距離が縮まるに連れて不安が頭をもたげ、それはどんどん大きくなっていった。前を通り過ぎる時には、彼女は震える程に針を握り締めていて、いつでも急所を突き刺せるようにと殺気が心を覆っていくのを感じた。
 ところが、何も起こらなかった。すると今度は恐れや孤独が寒さのように襲いかかり、彼女は後ろを振り返りもせずに、足早に歩を進めるだけしか出来なくなった。早くこの不明瞭な灯火の下を抜け、前方で輝く光へと辿り着きたくて仕方なかったのである。
 やがて眩さが目の前を包み込むと、彼女はあっと声を上げた。足下にあった筈の強い感触が掻き消えて、身体が重力の中に吸い込まれていく。そうして落ちて、落ちて、止まった。
 光はもうどこにも見えず、揺れる視界に広がっていたのは、遙か下層にまで続く暗がりだけだった。ホーネットは、自分が本能的に垂らしていたしおり糸によって落ちずに済んだ事を知り、今や遠く朧気な駅の灯を振り仰いだ。

 下から上がってきた者にしてみれば、この陰鬱な雨すらもいつだって心の慰めになってくれた。ホーネットは掌で顔を拭って一つ息を吐くと、横の全面窓から臨める都の陰影を眺め、命の種を絞ったジュースを煽った。
「姐さん、平気かい?」
「私の心配は要らないわ。それより、新顔がいるって?」
「あの窓際の席だ。妙な奴だから気を付けなよ」
「店を壊されたくないだけでしょう?」
 へへへ、と喉を鳴らして、その太ったムシはカウンターの奥へと身体を押し込めた。店内にはぽつりぽつりとランタンが吊されているだけで、月夜の森のように生き物の気配が溶け込みやすくなっている。そんな薄闇の端々で、何かを啜ったり、噛み砕くような音が聞こえてくる。
 降り止まぬ雨により涙の都と呼ばれるようになって、既に本来の名前すら失ったこの亡びゆく都市でも、未だにこうした店が各所で生まれては消えていくのだった。広大で複雑な建造物群には危険を承知で棲み着こうとする者が絶えず、中にはふてぶてしく商売を始める輩までいて、この食堂もそんな中の一つだった。
「あなた、新しい放浪者?」
 突然目の前に現れたホーネットに、そのムシは顔を上げた。
「放浪者? とんでもない。あんな連中と一緒にしないでくれ」
「彼らの事を知っているの?」
「碌でもない奴らだ。あちこち掘り返して、暴れ回って、とにかく謎だの敵だのに飛び付くみたいに……。そのくせ、まともな理由を持っているのなんて、一匹もいやしないのさ。自分がやっている事がどういう事かも分かっちゃいない。そんなのに仕事を邪魔されて、こっちはうんざりしてるんだ」
 発達した下顎からまくしたてられた言葉に興味を覚え、ホーネットは向かいの席に座った。怪訝そうな様子を見せるそのムシを尻目に、彼女は店主を呼び付ける。
「さっきと同じものを、彼にもやって」
「今日は上等なマゴットの肉も入ってるんだがね」
「ふん、ならそれも持ってきて」
 注文が取れて上機嫌になった店主は、手を貸すようなつもりで口を挟んできた。
「姐さんはいつも、新しく訪れる放浪者を探しているのさ。あんた何か分かるかい?」
「放浪者なんて、どれも似たような顔をしているからな。そいつが昨日までいた奴なのか、それとも今日新たに来た奴なのか、見分けなんて付かん。生きてると思っていたらとっくに死んでいて、昨日の続きのように同じ事をやっているのが、ふらっと現れた新顔だった……そういう連中さ」
 聞けば、彼が仕事と言っているのは、この地に遺る物質文化の調査らしかった。それが誰かに頼まれた依頼なのか単なる道楽なのかは分からないが、とにかくその口振りからは、文明の崩壊というものに対する強い執着が感じられた。
 ホーネットはそんな彼に見せ付けるように、テーブルにジオを置いて店主へ差し出した。
「こりゃあ、オリジナルか。へへへ、助かるよ。最近は秤の調子が悪くて、客が文句ばかり言ってね」
 化石となったムシの殻を通貨として利用するのは、今も昔も変わらない。しかし精巧な加工技術が失われて久しい為に、新しく掘り起こされたものは全て、大きさや見た目にかかわらずその含有量を確かめなければ価値を認められなかった。調査士を名乗ったそのムシは、彼女が持っていたジオの品質を見て、どうやら自分が話すに足る相手と判断したようだった。
「あなた、いつからこの辺りを?」
「もう長い。だが、ここもどれだけ保つか分からんから、焦っている。この雨がどこから来るか知ってるか? 上にある青い湖から、ミネラルをたっぷり含んで漏れてきている。それが水路に酷い影響を及ぼしてきているんだ」
「地下世界にここまで巨大な都市を造るなんて、最初から無茶だったのよ」
 窓を伝う雫の一つ一つが、街の景色を美しく歪めて落ちていった。遠くに見える塔の群れは、かつてそこで暮らしたエリート達のように堂々と屹立している筈なのに、今は不気味に身をよじる影法師のようだった。
「古い時代におけるウィルム達の偉業は、尊敬に値するさ。その歩みの跡が、こうして我々の暮らす世界を創ったのだからな。しかし、時間はそんな彼らをも滅ぼした。あらゆるものが土へと還っていくのだ。私が許せないのは、それからも逃げ出したあの出来損ないの王だよ」
「彼だって元々、ウィルムの中の一体でしょう」
「私にしてみれば、その出来損ないさ。本来、進化とは生物がその種を存続させる為に行うものだ。私達が自己完結性を持続させようとして、生きている限り絶えず身体を作り替えていくのと同じでな。変態を繰り返して大きくなったり、姿を変えていく連中を見ればいい。永続、不変、唯一無二なぞ……醜い妄言だよ」
 彼は王国領内で発見された建造物やタブレット、そこから算出した居住者の数や、記録されていた年代の数という、社会の複雑さを測る指標について説明した。そしてその上で、王国が亡びた時期は、その絶頂期からほんの僅かな時間しか経過していないのだと語った。
「富や資源の消費が最大限に高まった時、環境もまた限界を迎える事が多い。ところが、国というものは際限のない夢の中にしか存在出来ない。民はどんな時でも繁栄を要求し、支配者の地位はそれを保証し続ける事でしか正当化されないからだ。それがまやかしだと分かった瞬間から、綻びは単なる兆候ではなく、崩壊という現実に他ならなくなる」
 小さく、しかしはっきりと、叫び声が聞こえた。窓向こうに眼を向けると、街灯の下で複数のムシ達が集まり、互いに爪や牙を突き立てて取っ組み合っていた。雄叫びと悲鳴、怒号と泣き声が混じり合い、その足下は彼らの体液でてらてらと煌めいている。
「汚染を早期に封じ込める事が出来ていたら、きっと違ったわ」
「……汚染なんて、本当に存在するのかね? 社会活動が維持出来なくなって、皆手の届くところから喰っていった。それだけじゃあないのか?」
 席に運ばれてきたマゴットの肉は白く、新鮮で張りがあった。調査士が齧り付くと、それはまるで悶えるように震え、彼の暴力的な顎によってみるみる千切られ潰されていく。
「ただで喰えれば、何でも美味いさ。……ああやって光に吸い寄せられて、眼に見えたものを襲い、喰らって、交わろうとする姿を見ろ。ひょっとすると、あれこそが我々の本来の姿かも知れないと思えてこないか?」
 ホーネットが思わずその二つの大きな複眼を覗き込むと、彼女は数千個のレンズが自分を見つめ返しているのに気が付いた。
「この建物は昔、大型の集合住宅だったそうだ。中には公園や学舎、商業施設まであって、まるで一つの街を形成するような規模だったという。そんな近代的で、何もかもある暮らしは、当時のムシ達にとって憧れの的だったに違いない。だが奇妙な事に、ここの屋上で起きたある一件の投身自殺をきっかけに、同じような自殺者が後を絶たなくなった。高層建築でありながら、富裕層の住居とは異なり外部からの侵入が容易で、安全対策も甘かった為、ここは住民以外にとっても身投げの名所になっていったのだ。彼らが死を選んだ理由とは何だったのか? 私は、ある父子三匹が命を絶った記録を読んだ事がある。『お母さんも地獄へ行け』……それは幼子を残して去って行った母親への、呪詛の言葉だった。彼らは自らを殺すという生命の禁忌によって、復讐しようとしたのだ。血の繋がった母に邪な考えを抱かせ、そして自分の中で苦しみを産み落とし続ける知性というものに……。あの頃、都市部で流行していたとされる、おかしな神経症も同じさ。言葉を知る肉に抵抗を覚え、ムシを喰えなくなった者達。その一方で、捕食の為でもないのに相次いだ、隣人の殺害。彼らは皆、知性に殺されたのだ。あの出来損ないの王が、最も輝かしいと語り、もたらしたものにな」
「……それならどうして、あなたはさっさと捨ててしまわないの? 風鳴りの崖向こうに身を曝せば、記憶も思考も洗い落とせると知らない訳ではないでしょう?」
「恐ろしいのだ! こうして文明が行き着く墓場のような場所にいても尚、私は私を失うのが恐ろしい。それこそ死んだ方がましだなどと、本気で考えている。知性こそ病だ……知性こそ……知性こそが……。放浪者だって皆、外からやって来るらしいじゃないか。今ここにいる中から、ある日思い立って放浪者になるという者は決していない。連中は決まって、風鳴りの崖を越え、外からやって来る。だから、あんなにも無意味に死んでゆけるのかもな」
 それから彼は、もう一度外に視線を投げた。
「しかし見てみろ。明日の命の為に、必死に喰らい合うあの姿を……。あんた、本当に羨ましいとは思わないのか?」

 広場の中心には、今もホロウナイトの記念碑がある。噴水はもう動いていないが、そぼ降る雨がいつまでもその暗い表面を濡らしていて、彼の姿は凜々しくも物悲しい。
 ホーネットはその前に立って、石畳の向こうで転がる先程のムシ達を見ていた。あれだけ激しい生存本能に突き動かされて争っていた彼らなのに、死骸には僅かな殻の重み以外、もう何も残っていないようだった。
 その陰に隠れるようにして、小さなムシ達が怖ず怖ずと動いていた。姿形から見て、死んだ者達の子供かも知れないとホーネットは思った。彼らはそこで、死肉を食べていた。躊躇いがちなのは、自分の親を口にしているからではなく、敵に襲われないように周囲に気を配っている為らしい。
 食べづらくなると、それはひっくり返された。そうして何度転がされても、何も言わず、ただそこに転がっているだけだった。その動静に、ホーネットは生と死という実際を見たような気がした。そしてそれに比べれば、間にあるものはどれもこれも酷く曖昧に思えた。
「……いつ来たの?」
 横に立っていたのは、釘を背負った一匹の放浪者だった。彼はまだほんの小さな身体で、虚ろな眼をじっと上の方へ向けて、青白い雨に濡れていた。その視線を追った途端、ホーネットは自分の中で抱えていた想いが沸騰し、そこから沸き立つ泡のように次々と記憶が浮かび上がってくるのを感じた。それは胸を押し潰すような勢いで、彼女は外へ吐き出さずにはいられなくなった。
「小さな頃は宮殿へ行って、よく遊んだわ。白いお母さんの秘密の庭に勝手に入って、かくれんぼをして怒られたっけ。一緒に本を読んでもらうのが大好きだった。色んなお話を聞いて、沢山の事を教わったわ。戦いの術を習う時も、まるで新しいゲームをするみたいに楽しかった。偉大な身体を捨てた脆弱な王なんて言われていたけれど、とても立派な太刀筋だった……」
 小さな放浪者は最初、不思議そうにこちらを見上げていたが、すぐに興味を失ったように身を翻して行ってしまった。彼女は遠ざかるその背中に、声を震わせて言った。
「そんな事も忘れてしまったの? あなた達は……」

 そして暗闇の中で、彼は彼を追い掛けていた。
 獣達が造った道は複雑で、それはすぐ先を走っているように見えても、突然脇から現れたり、上や下を通り過ぎていったりした。行動は気まぐれで、何の意味も持たないように思われた。
 しかし、彼は彼を追い掛けていった。すると急に開けた空間に出たらしく、空気の流れが変わって、目の前の闇が膨れ上がった。何も見えない。ところが不思議な事に、そんな黒一色の中に染みのようなものが漂っていた。
 それは暗闇よりも濃い、カゲだった。フラフラと近寄ってきたところを咄嗟に斬り付けると、重たい感触が手元にこびり付いた。彼はそれでも、躊躇なく何度も釘を振るって、そいつを八つ裂きにしてしまった。
 まるで引き千切られるような鈍い痛みが全身に群がり、それが自分の痛みだと分かるには、少しだけ時間が必要だった。顔のない獣が、その小さな身体を食い破り、這い出してきたのである。
「誘い込まれたのだ」
 束ねられていく記憶が、彼に語り掛ける。釘を持ち替える為に落としたランタンが砕け、ルマバエが上から吊された死骸の数々を照らしながら飛び回った。
「奴らは獲物の選り好みはしない。大きささえ合えば、何でも喰う」
 光に映し出されては消えていく死者の中に、彼は彼の姿を見た気がした。けれどもはや、そんなものには何の執着もないらしかった。
「大きすぎる代償はない」
 踏み込まなければ、攻撃は届かない。とはいえ、手段は幾らでもある。跳躍、飛翔、疾駆、ソウルの集中及び解放、これらの組み合わせと程度を操る事で、本来どんな状況をも支配する事が可能なのだ。
 動きを止めずに、常に先に跳んで、引き寄せてから斬る。もしも出来なければ、彼はあっさり死んでゆくだろう。しかしそれがまた、彼らに更なる変化をもたらしていく。
 釘による一撃が、再び鈍く閃いた。
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